( published: Oct. 26, 2003 / completed: Dec. 19, 2003 )
「おはよう、バリッドちゃん」浴衣のまま部屋を出たバリッド・バリッドを、管理人のキネコ・シーが迎えた。「昨日はよく眠れた?」
「ええ、1週間ぶりの動かないベッドでしたから」バリッドは軽く背伸びをしながら、テーブルの上に目を向けた。「やはりここも米が主食なのですね?」
「あら、バリッドちゃんのところでもお米を食べるの?」テーブルの前に置かれた鉄鍋を開けながら、キネコは応えた。「実はJISタウンでも米が沢山穫れるのよ」
「米が採れるということは、結構暖かい場所なのですね?JISタウンは」
「それがそうでもないのよ。夏も20度ぐらいが限度だし、冬になればマイナス10度とか20度とかになるし」
「私のところも夏はそれぐらいですよ、冬はそれほど厳しくはないですけれど」洗面台の前に立ったバリッドは温水を貯めながら応えた。「ところで、このフラットには他に住んでいる人はいないのですか?」
「あと2〜3人いるんだけど、9時半ぐらいに出る人達ばかりだから」キネコは鍋の中身をお椀に移した後、席の前に置いた。「バリッドちゃんは、味噌汁は飲んだことあるかしら?」
「味噌汁まであるのですか」タオルを手に取ったバリッドは、暖簾から顔を出し、テーブルの側を覗き込んだ。「もしかしたらW3CランドとJISタウンは、大昔から繋がりがあるのかも知れませんね…あ痛っ」
「中の具はちゃんと顔を洗ってからのお楽しみよ」暖簾の前に寄ったキネコは、バリッドの額を軽く小突いた。「でも面白いわね、海を遠く隔てた国に殆ど同じ料理があるなんて」
「せめて胸の辺りにしてほしかったわ、同じ小突くなら」バリッドはぼやきながら、暖簾の奥に戻った。「それでは、顔を洗ってきますよ。楽しみにしていますから」
朝食を終え、部屋に戻ったバリッドはチディベアをカーテンの外に隠し、浴衣を脱ぎ始めた。
「朝食はどうでしたか」チディベアは窓の向かいの塀を眺めながら訊ねた。
「キャビアのおにぎりとほうれん草のお浸し、それと大根の味噌汁だったわ」バリッドは抽斗から取り出したタイツに脚を通しながら応えた。
「キャビアって、チョウザメが取れるのですかね」
「恐らく養殖なのではないかしら」薄紫色のタイツを胸の下まで引き上げたバリッドは、次にスリップをハンガーから取り出した。「それより米や味噌が普通に出て来たことの方が驚きだったわ」
「ここでも米や大豆を作っているのですな」チディベアは一瞬脚を伸ばそうとしたが、人の気配を感じて慌てて動きを止めた。「ところでそちらの日当たりはどうですかね」
「南側の窓は通りに面しているから、結構日当たりはよさそうよ」クロゼットからピンク色のワンピースを取り出したバリッドは、チディベアを隠したカーテンの側を振り向いた。「西側はどうかしら」
「目の前に塀がありますな。それでも大人の背の丈ぐらいですから、真冬でもない限り西日が入るのは確実そうですよ」
「ということは、塀の向こうには庭か何かがあるのね」ワンピースに袖を通したバリッドは、机の上に置かれたカチューシャを手に取りながら西側のカーテンを開いた。「建物が窓から離れて建てられているというのは、やはり考えて作られているのかしらね」
机の上の鏡を見ながら前髪にカチューシャを合わせたバリッドは、ワンピースの裾を直しながら椅子に掛けられた鞄を肩に掛け、出口へと向かった。
「それでは、行ってくるわね。部屋の中ではあまり動き回らないようにね」部屋の奥に呼びかけたバリッドはゆっくりと扉を開けて部屋を出た。暫くして、扉の閉まる音と鍵のかかる音とが部屋の中に鳴り響いた。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ」西側の窓では、カーテンに包まれて身動きの取れなくなったチディベアが短い手足を伸び縮みさせながらもがいていた。「せめてカーテンから出して下さいよ」
フラットを出て十数分後、バリッドはイソガオカの丘の麓に、フェンスに囲われた白い建物を見出した。
「あれが私の通う『スクール・オブ・ボホーメン』ね」バリッドは鞄から地図を取り出し、建物と地図を見比べた。「名前はボホーメンだけれども、住所はイソガオカなのね。正門は…通りを横切って反対側か」
巨大なパイ箱の様な校舎は4階の部分にまで窓を備えており、3階建てさえ珍しいJISタウンにおいては、ひときわ目立つ存在だった。
「校庭や運動場は建物の中にあるみたいね…っと、先生かしら」裏通りに入ったバリッドは、校門の前でスーツ姿の男が通りの左右を見まわしているのに気付いた。バリッドの側を一瞬向いた男は急に背筋を伸ばし、視線を逸らして身構えた。
「おはようございます」校門に着いたバリッドは、男の前で軽く一礼をした。「今日からこの学校で勉強することになりました、バリティ…バリッド・バリッドといいます」
「や、どうも。貴方がバリッド・バリッドさんですね」校門の男は銀縁の鼻眼鏡を直しながら、バリッドに一礼した。「私が担任のショー・カンザキです。JISタウンには昨日から来たのですか?」
「ええ、色々と慌しかったのですが」
「ええとバリッドさん、まず職員室へ来てくれませんか。教科書など渡しておきたいものが…と」カンザキは校門を通り過ぎる大柄な少女の側に向き直った。「おはよう、フーミ・サンポンさん」
「おはようございます、カンザキ先生」カンザキを見下ろすほどの長身を持つフーミは、踝丈のスカートを直しながらバリッドの側を向いた。「貴方が留学生の?」
「はい、バリッド・バリッドといいます。よろしく」バリッドはフーミの顔を見上げながら握手を求めて手を伸ばした。
「フーミ・サンポンといいます」フーミは少し屈みこむようにバリッドの握手に応えた。「その服は、いつも着ているもの?」
「いつもという訳ではありませんが」フーミの視線を感じたバリッドはワンピースの裾を押さえながら応えた。「もしかしたら服装に細かい決まりがあるのですか?」
「いえ、そういう訳ではありませんが」フーミはセーターの衿を持ち上げ、頬を隠しながら視線を逸らせた。「クラス委員の癖というか、その、ええ」
「ちょっと良いですかフーミさん」二人の会話の間に、カンザキが割り込んだ。「フーミさんは先に教室へ行っていて下さい。私はバリッドさんに教科書や資料を渡す必要があるので」
カンザキに連れられて校舎に入ったバリッドは、廊下を歩きながら中庭の様子を眺めた。
「そうか、校舎の内側は三角屋根になっていて、2階より上は屋根裏部屋なのね」
「ええ、3階4階にもいくつか教室はあるのですが」カンザキは窓の向こうに見える中庭を指差しながら応えた。「向こうに行くと、もっと広い中庭が、運動場や音楽堂などとして使われているんですよ」
「大きい建物だから、建物の中も狭くて暗いものだと思っていたのですが」
「意外と開放感があるでしょう…っと、ここが職員室です。どうぞ」
カンザキから十数分ほどの説明を受けたバリッドは、教科書で重くなった鞄を肩にかけながら、他の教師達と共に職員室を出た。
「私のクラスは115号室で良いのですね?」
「はい、次の十字路を左に曲がって、4番目の部屋です」バリッドと並んで歩くカンザキは、大きな紙包みを左脇に抱えていた。
(あの包みの中はテストかしら。まさか入学試験をやるなんてことは無いだろうけれど)
バリッドが紙包みからカンザキの顔へと視線を移した直後、廊下を大きな音が通り抜け、バリッドの背筋を垂直に引き伸ばした。それは始業時間を知らせる鐘の音だった。
「ちょっとここで待っていて下さい」115号室の扉の前でバリッドを待たせたカンザキは、紙包みを持ち替えながら教室へと入っていった。閉じられようとする扉の間からは、生徒達のどよめきが噴き出したが、カンザキが制止したのか、すぐに聞こえなくなった。
バリッドは反対側の中庭を眺めながら、教室の中の音に耳を傾けた。
『既に諸君も知っているとは思いますが、今日から新しい友達がこのクラスに加わります。W3Cランドからの留学生です』
カンザキの呼び声を聞いたバリッドはゆっくりと扉を開き、教室へと入っていった。生徒達の視線が一斉に集まるのを感じ、バリッドは背筋を大げさに伸ばした。
「今日から1年間、このJISタウンで勉強することになりました、バリッド・バリッドです」教壇の上で自己紹介をしながら、バリッドは教室の中を見まわした。教室はほぼ正方形をした比較的小さなもので、その中に20人ほどの生徒が机を並べて着席していた。三方の壁には大きな黒板が掛けられ、窓の側からは黒い建物を掲げたなだらかな丘全体を眺めることが出来た。
(ISO子ちゃんにリント君、それにフーミさんとも同じ組なのね。パイロ君はこの組ではなさそうだけれど)
「おかしいですね、バリッドさんの席がまだ無い様です」教室の席の数を数えながら、カンザキは首を傾げた。「昨日のうちに席をもう一つ入れてくれていると思ったのですが」
「あの席が空いているみたいですけれど」バリッドはフーミとセインに挟まれた空席を指差した。「あそこは駄目なのですか?」
「パイロの奴、またバイトが入ったみたいだな」空席の後ろに座るリント・ニッシーが呟きながら手を上げた。「取り敢えずバリッドさんにはそこに座ってもらって、パイロが来たときにはその時考えるというのでどうですか?」
「そうですね、そうしましょう」カンザキは軽く頷いた後、空席にバリッドを向かわせた。「今日はパイロ・ウメダ君の席に座ってもらいましょう。明日には新しい席が来ると思いますから、その時にまた席を決め直しましょう」
バリッドの着席を確認したカンザキは紙包みからノートを取り出し、出欠確認を始めた。カンザキの呼ぶ名前と、生徒達の声の方向から、バリッドは生徒達の名前を顔とを一致させようとした。
(そうだった、ISO子ちゃんの本名は『セイン・アイゾ』というのだった。他は覚えられるのに何でこれだけおぼえられないのだろう?)
「それでは出欠も取ったところで」ノートを教卓の下に入れたカンザキは、紙包みから紙の束を取り出した。「抜き打ちテストを始めようと思います」
カンザキの一言で、教室は急にどよめきとため息で満たされた。そんな中、教壇の真正面に座るグラウフ・アノーが立ち上がった。
「先生は休日を挟んで8日連続で『抜き打ちテスト』を行っています。これでは『抜き打ち』の意味がありません」
「そうだそうだ」「良く言ったグラウフ」「せめて『抜き打ち』は外して」グラウフを支持する声で教室は騒然となった。
「そうか、そんなに連続してやっていたか」教卓に紙の束を置いたカンザキは腕を組んで考え込んだ。「確かに『抜き打ちテスト』を8日連続というのはやり過ぎでしたね」
前の扉が音を立てて一気に開いたのはその直後だった。やがて開いた扉から椅子を載せた机が、甲高い金属音を引き摺りながら教室に押し込まれていった。
「済みませんね、昨日搬入の予定が牛のせいで遅れてしまって」机を運んでいたのはまさにそのパイロ・ウメダだった。「これ、何処に置きますかね?」
「ご苦労さん、取り敢えず窓際に寄せておいて下さい」カンザキは教卓を黒板の側に押し込み、机を通す道を作った。「しかしパイロ君が机を運びに来るとは」
「ええ、本当はサトミカーンの方へ行くつもりだったんですがね、急にこの仕事が入って」
「ということは、すぐ帰る必要があるのかな?」
「それがですね、親方が今日やる仕事の分を空けてくれたんですよ」机と椅子を並べ終えたパイロは、本来の自分の席にバリッドが座っているのに気付いた。「おかげさまで、こうしてバリッドさんと一緒の教室に入れて」
「感謝しろよ親方に」リントは机に並べられていた教科書を中に入れながら応えた。「あとバリッドちゃんにもな。危うくテストをやるところだったんだから」
「リント君のおかげで良いことを思いつきました」リントの言葉にカンザキはふと手を打った。「『バリッドさんの実力テスト』ならば『抜き打ちテスト』ではありませんね。早速用紙を配りましょう」
「何やってんだリント」「余計なことを言って」「これで9日連続だ」生徒達はリントに向けて一斉に紙切れを投げつけた。
問題用紙と答案用紙が各人に渡されたのを確認したカンザキは、窓側に掛けられた時計に目を向けた。生徒の一人が手を挙げたのはその直後だった。
「何だね、エロリー・ムーン君」
「ええと、名前はどちらに書けば良いのですか?」エロリーは三段腹を掻きながら訊ねた。
「名前を書く欄があった筈だが…」カンザキはエロリーの机の側に向かい、答案用紙を見た。「これは印刷ミスですね、取り敢えず上の方に名前を書くようにして下さい」
禿げあがった頭を掻きながら名前を書くエロリーの姿を見たカンザキは教卓に戻り、再び時計に目を向けた。
「皆さんもう準備は良いですね」生徒たちの側に視線を移したカンザキは、各人の準備の出来具合を確認した。「それでは、問題用紙をめくって、始めてください」
カンザキの号令とともにバリッドは問題用紙をめくった。
(問題は1問だけか…って三択問題一つだけ?いくら実力テストとはいえこれは…)
バリッドは額を押さえながら設問の文章を読み直した。3度目の読み直しに入ろうとした直後、右前に座るエロリーが再び手を挙げた。
「先生、第8問が『次の問いに答えよ』で終わっているのですが」
(第8問って…!道理で変だと思ったわ。でも印刷ミスにしてはちょっと変ね)
バリッドは鉛筆を机に置き、手を挙げようとしたが、他の生徒たちの手の一斉に挙がるのを見て、慌てて室内を見まわした。
「先生、僕もです」「私は5問目から真白です」「自分のは第3問しかありません」カンザキに問い合わせようとする生徒たちの声で、教室は騒然となった。
「ちょっと待って、カンニングは駄目です」互いを見まわす生徒たちを、カンザキは制止した。「印刷ミスが重なった様です。余りの問題用紙を今渡しますから静かに」
カンザキは教卓の上の問題用紙を抱え上げ、生徒たちの机の前に降りた。
「先生、どうしたのですか?」用紙を抱えたまま動かないカンザキの様子に気付いたバリッドは、彼の視線の先にある後ろの黒板に目を向けた。「何も無い?いや、これは…」
暫くして、バリッドは違和感の原因に気付いた。本来濃い緑色をしている筈の黒板が、真黒に塗り潰されていたからだった。だが、違和感の原因はそれだけではなかった。
(何か虫みたいなものが動いているみたいだわ。いや、あれは虫でなく…)
その直後、バリッドの瞳に昨日の出来事が蘇った。港の休憩所の時刻表。イソガオカの停留所らしき柱。そして今日の白紙の問題用紙。それらが一点で交差したとき、バリッドは一つの結論に達した。
「あれは、文字だわ…!」予想外に大きな声を上げてしまったと思ったバリッドは、慌てて手で口を押さえた。しかし生徒達の注意を後ろに向けさせたことは、むしろ評価されるべきものだった。
「文字だって?」「一体何が」「うわっ真黒だ」「膨らんでいるぞ」生徒達は一斉に後ろの黒板に向き直った。生徒達が見たものは、真黒な表面を波打たせながら膨れ上がる「黒板」だった。
その直後、「黒板」は生徒達の頭上を飛びあがり、正面の黒板に張りついた。無数の文字の塊で出来たそれは正面の黒板の上で丸い塊となり、教室の中を飛びまわり始めた。教室の中はたちまち混乱した生徒達の悲鳴で溢れかえった。
「慌てないで、屈んで扉から出てください」カンザキは教壇の後ろで屈みこみながら声を張り上げた。しかしその時には、生徒達は既に教室を出、廊下で整列しているところだった。
「カンザキ先生、早く出てください!今教室にいるのは先生だけです」セインの呼びかけを聞いたカンザキは、頭を抱えながら逃げるように前の扉を抜けた。
教室を出たカンザキは勢い良く扉を閉じ、廊下の生徒達を見まわした。
「よし、皆教室から出ましたね」カンザキは生徒達を中庭側に寄せながら、生徒達の顔を確認した。「それでは一旦、校舎から出ましょう。慌てず走らず、安全を優先して下さい」
その直後、後ろの扉が一気に開かれ、中から黒い文字の塊が飛び出した。恐怖に陥った生徒達は悲鳴と共に逃げ出し、慌てたカンザキも、生徒達を追うように走り始めた。
「だから走っては駄目です、落ち着いて歩いて下さい」カンザキは前を走る生徒達に向けて叫んだが、黒い塊が後ろから追いついてくるのに気付くと、必死で加速して生徒達に追い付いた。
暫くして、カンザキと生徒達は通用口を抜けて、外に出ることに成功した。逃げ疲れた一同は座りこみながら肩での息を続けていた。
「慌てるなといっていながら、先生が一番慌てているじゃないですか」
「それは言わないの、エロリー君」フーミはスカートの裾の汚れを払いながら、カンザキの側を向いた。「結局、あれは何だったんです?先生」
「それについては、まだ応えられませんが」ハンカチで汗を拭きながら、カンザキは立ち上がり、生徒達を見まわした。「それより皆さんは大丈夫ですか?」
「いえ、バリッドさんがいません」手を挙げて応えたのはセインだった。「恐らく逃げている途中で私達とはぐれて…あれは何でしょう?」
セインは柵の先にある通りを指差した。指の先には、先の黒い塊と、それに追われるバリッドの姿があった。
「皆何処へ行ったの?」通用口の存在をまだ知らないバリッドは、曲がる方向を間違えて正門から校外へ出てしまっていた。「よりによって私一人を狙ってくるなんて」
黒い塊は看板やポスターから文字を次々と吸い上げ、その大きさを増していった。蜂の大群の様な鈍い音を立てながら近付くそれは、バリッドが振り向いたのに合わせて全身を海栗のように尖らせ、動きを速めていった。
「でも、私一人だけなら…」後ろからの音を背中で確かめながら、バリッドは左右を低い壁で挟まれた裏道へ入った。「他の人達と出くわさなければ良いのだけれど」
バリッドを追い続ける黒い塊は左右の狭い壁で棘を削られ、ガラスを爪で引掻く様な甲高い音を立てた。その音は住人の注意を惹くには十分だった。
「何この音」「うるさいぞ」「女の子が追われているわ」「何だあの黒い塊は」2階の窓が一斉に開き、騒ぎを聞きつけた住民達が身を乗り出した。バリッドを追う黒い塊に気付いた住民達は、今まで見たことのない現象に呆然と立ち尽くしていた。
(こんなに人がいるなんて!こんな場所で『マークアップ』をしたら…)
バリッドは2階の様子を気にしながら、黒い塊からの逃亡を続けていた。いくつかの曲がり角を抜けた後、バリッドは建物の窓と低い塀に挟まれた裏道に出た。
「曲り角は苦手みたいで助かったけれど」窓を通りすぎたバリッドは立ち止まり、通りを背にして黒い塊を待ち構えた。「この先は広い通り、周りに人の姿は無い。ここなら…」
黒い塊がバリッドの目の前に再び現れたのは、その直後だった。壁に棘を削り取られ、黒いカーテンを被った幽霊の様になったそれは、目の前に立ち塞がるバリッドめがけてゆっくりと突き進んでいった。
「相手が『ほーむぺーじ』なら、『マークアップ』を使うしか…!」
バリッドは身構えながら、黒い塊に向けて右の手のひらを向けた。バリッドのカチューシャに重なる様に、V字型の赤い模様が浮き出しはじめたのと、黒い塊がバリッドに向けて一気に飛びかかったのは、ほぼ同時だった。だが、バリッドを真に動揺させたのは、手前の窓だった。
「しまった!見付かった!!」急に開いた窓に動揺したバリッドは後ずさりした脚を滑らせ、その場に尻餅をついた。黒い塊はここぞとばかりに高く跳ね上がり、バリッドに覆い被さろうとした。
黒い塊がバリッドの目の前10センチまで近付いた時、開かれた窓から小さな丸い物体が砲弾の様に飛び出し、黒い塊を向かいの塀に叩き付けた。丸い物体は塀と建物の壁との間を往復しながら、黒い塊を叩きのめしていった。
「あの球は、もしや…!」バリッドは上体を起こしながら、テニスのラリーを思わせる丸い物体の動きに目をやった。「間違い無い、あれは…」
黒い塊をカーテン並に平たく叩き潰した後、丸い物体は建物の屋根からゆっくりと落下し、バリッドの手の間に収まった。やがて丸い物体は円筒や球体を噴き出し、バリッドにとって非常に見慣れた姿に変形した。
「チディベア!何て事を…!」
「何て事を、ではありません」チディベアはバリッドの胸の上で短い手を伸ばし、背筋を伸ばす姿勢をとった。「姫さまが危機とあればこれぐらいの事は」
「あっ、逃げて行くわ!」
「さすがの覆面強盗も、私の奇襲攻撃には耐えられなかった様ですな」チディベアが胸を張る後ろでは、壁紙の様に平たくなった黒い塊が塀から剥がれ、地面に倒れこんでいた。暫くして黒い塊は細い棒の様に丸まり、竹とんぼの様に回りながら、雲の中へと飛び去っていった。
「全く、折角のチャンスを…」立ち上がったバリッドはチディベアを部屋に戻す為、窓からはみ出したカーテンをかき分けた。セインの声がバリッドの耳に届いたのは、その直後だった。
「バリッド!聞こえているなら返事を下さい」セインのよく響く声がバリッドの背後から飛び込んだ。
「はい!私はここです」バリッドは通りに向けて叫んだ後、チディベアの側を向き直り、机の上に置いた。「続きは後でね。私は学校へ戻らないと」
窓を閉じたバリッドは通りに飛び出し、セインに向けて手を振った。セインと共に探しに出たパイロとカンザキもバリッドに気付き、小走りで駆け寄った。
「『フラット・オハギーノ』ということは、自分の家まで逃げて来たんですね」建物の看板に気付いたパイロは、地下足袋を引き上げながらバリッドに向き直った。「さっきの黒いのはどうなりましたかね?」
「裏道を逃げているうちに、いなくなったみたいです」バリッドは靴の中に入った小石を振り落としながら、裏道の側を指差した。「でも自分の家の辺りを通っていたとは思いませんでした」
「怪我はありませんか?」
「大丈夫です、カンザキ先生」
「それは安心しました」上着の衿を直したセインはバリッドの手を取り、校舎の側を指差した。「教室へ戻りましょう、他の生徒も無事ですよ」
「テストはどうするのですか?」
「まあ9日連続でテストというのも続きすぎでしたから」カンザキはバリッドの問いかけに対し、肩を捻りながら応えた。
教室に戻ったバリッド達は暫くの休憩の後、再開された授業を受けた。その後は特に事件は起こらず、ただ昼食の時間に黒い塊の正体についての話題が上ったのみだった。
「結局あれは何だったのかしら」机を並べ替えて作った円卓に座るフーミは、バターロールをちぎりながら他の生徒達に訊ねた。「あれがテストの文字を消していたのは分かるんだけど」
「ああいったものは今までJISタウンには現れなかったのかしら?」バリッドは海苔で米と椎茸を巻きながら、円卓の生徒達を見まわした。
「確かにJISタウンでも、しばしば説明の困難な奇妙な現象が起きていました」応えたのは厚切りのベーコンをレタスに巻くグラウフだった。「しかし今日の様に目に見える形で現れた例は今日が初めての筈です」
「それで合点がいきました」ナンを魚醤に漬けながら食べていたパイロは、不意に手を打った。「港の時刻表の文字を消していたのも、さっきのあれではないですかね?」
「ところでバリッドちゃんは、この円卓には触れなくていいのかな?」骨付きラムを頬張っていたリントがパイロを遮った。「何も疑問も持たずに机の並べ替えを手伝っていたけれど」
「でも、私が知りたいのはあの文字の塊の正体なのよね…バリッドさん?」リントを無視して話を続けたフーミは、バリッドが手にした海苔巻を見つめたまま動かないのに気付いた。
「…っと、いえ、海苔を見ていたらさっきの黒い塊を思い出して」
「まああんな目に遭えば忘れたくなるものですから」バリッドの隣に座るセインは、人参のピクルスを挟んだ黒パンを差し出した。「これと交換すれば少しは…と、もっと駄目ですねこれは」
「まあ、残らず食べてしまえば良いのだけれど」我に返ったバリッドは海苔巻を半分に切り、差し出された黒パンに手を伸ばした。
その晩バリッドは、自室の机に向かって宿題に取り組んでいた。
「10時ぐらいには全部終われば良いのだけれど」ノートのページをめくったバリッドは、ランプの側に座るチディベアに目を向けた。「チディベアの手伝いは要らないから、もう眠ってもいいわよ」
「いえ、1つ間違いらしきものを見つけたので、気になっていたのですが」
「道理でそわそわしていると思ったわ」チディベアを手に取り、ベッドに寝かせたバリッドは、ベッドカバーの上に腰を下した。「全く、世話焼き過ぎるのよね」
「それにしても姫さまは、今日は災難でしたな」ベッドカバーをよけたチディベアは上体を起こし、バリッドの側を見上げた。「私が助けに行かなければどうなったことか」
「あそこでチディベアが出なければ、『マークアップ』が出来たのよ。余計なことをして」
「冗談言わないで下さいよ、只の覆面強盗に『マークアップ』など」
「あれは覆面強盗などではないわよ」バリッドはベッドカバーに腰掛けたまま体を捻りながら応えた。「文字の塊という以外は何も分からないものだったから、『マークアップ』を…チディベア?」
「ひ、人ではないですと…!」バリッドの言葉を聞いたチディベアは、丸い胴体を小刻みに震わせ始めた。「ということは、本物のお化けではないですか…!」
予想外の恐怖で全身を激しく震わせたチディベアは、最後に両手を真下に下したまま硬直し、その後シーツの上に仰向けに倒れこんだ。
「全く、勇敢な様でいて、こういう所で臆病なのだから」バリッドは気を失ったチディベアを枕の上に載せ、毛布を肩にかけた。「お休み、チディベア。私も宿題が終わったら眠るから」
机の前に戻ったバリッドは教科書を開き、手に取った鉛筆をノートに向けた。しかし、チディベアの先の言葉が気になったバリッドは、鉛筆を手にしたまま暫く硬直していた。
「そういえばチディベアは間違い『らしきもの』があると言っていたけれど…」バリッドは鉛筆を横に置き、ノートの前のページを眺め始めた。「探すだけでも30分はかかりそうだわ。日付が変わるまでにベッドに入れるかしら…」
バリッドは10ページにわたる長い数式に目を凝らし、あるかどうか分からない『間違い』探しを始めた。バリッドの横では、ランプの中の発電用ぜんまいが、窓の外の星のまたたきに合わせて微かな音を響かせ続けていた。