( published: Feb. 28, 2004 / completed: Apr. 13, 2004 )
「それでは、ミューフ・リー校長のお話です」
舞台下のショー・カンザキがマイクを下した直後、上手から長身の女性が現れ、演台の前に立った。
(あの人が校長先生か…校長ということはかなりの年齢なのだろうけれど)
他の生徒達と共に舞台の方向を見つめていたバリッドは、ミューフの颯爽とした態度に思わず身を引き締めた。
「皆さんおはようございます。今日お話したいことは2つです」ミューフは後ろで手を組んだまま、講堂に並んだ全生徒を見回した。「先週、校内に不思議な物体が現れたことは、皆さん周知と思います」
「黒い文字みたいな奴でしょ」「運動場に穴を開けたんだって」「留学生が襲われたらしいよ」ミューフの言葉がきっかけで、講堂内の生徒達は急にざわめきはじめた。
「静かに!静かに!」カンザキは再びマイクを上げ、生徒達を静めた。「静かになった様ですね。では校長、続けてください」
「ありがとう、カンザキ先生」カンザキの側に軽く礼をした後、ミューフは話を続けた。「幸い、今回怪我人はありませんでしたし、その日から今日まで新たな事件もありません。しかしこれからもこういった事件が絶対に起こらないという保証が無いのも事実です」
(た、確かに…)
バリッドは自分のことを言われているかの様に小さくため息をついた。
「万一そのような奇妙な事件に遭遇した、あるいは目撃した場合は、すぐに最寄の自警団へ知らせて下さい」
ミューフは静まり返った講堂の中をゆっくりと見回した。生徒達の不安を感じ取ったミューフは軽く咳払いをした後、視線を水平に戻した。
「不安を煽る話はここまでにして、楽しい話をしましょう。皆さんもご存知とは思いますが、いよいよ明日、舞踊家ホリゾンタ・ルルーが本校で特別公演を行います」
(「ホリゾンタ・ルルー」って!まさかチディベアのやった「調整」がこれ、という訳はないか…)
バリッドは1年ほど前、そのルルーが王宮に招かれ、舞踊を披露したことを思い出した。しなやかな肢体から繰り出される表現力豊かな舞踊に感銘を受けたバリッドは、彼の滞在中に舞踊を教わることを申し出たのだった。
「そんな無理ですよ、先生みたく脚を高く開くなんて」バーにしがみつくバリッドは、脚を真横に伸ばすだけでも既に息切れをしていた。
「勿論、いきなりは、無理でしょう」垂直に上げた右脚を下しながら、ルルーは応えた。「しかし、豊かな表現の、為には、体が、柔らかくないと」
「そ、そうでしょう、けれど」ルルーの片言喋りを真似たつもりはなかったが、彼の動きに追従するのに精一杯なバリッドには、細かい事を考える余裕は無かった。股関節に不気味な音が鳴り響いたのは、その直後だった。
「だ、大丈夫、ですか」急に座りこんだバリッドに動揺したルルーは、慌てて駆け寄った。
「こ、これぐらい平気です」バリッドは内股を押さえながらも笑顔を見せようとしたが、股関節から発する痛みは、バリッドをうずくまらせる結果となった。「あいたたたたたっ、あと3分、いや5分待って下さい」
「いえ、今日は、ここまでに、しましょう」バリッドの側に座りこんだルルーは、手を取りながら首を振った。「明日からは、準備運動を、もっと、やるように、しましょう」
(あの日の出来事がなければ、今日まで柔軟体操をやり続けることは無かったかも知れない。それにしても)
「舞台芸術に触れる絶好の機会です、出来る限り鑑賞して、芸術への理解を深めて下さい。私の話は以上です」
朝礼を終えたミューフの一礼に合わせて、生徒達も深く頭を下げた。行動の遅れたバリッドは慌てて頭を下げたが、それは一つ前に立つミクス・ケンガーの背中に頭突きを決めてしまう結果となった。
「やんっ!」背中に頭突きを食らったミクスは錐揉みをしながら床の上に倒れこんだ。「痛いじゃないのバリ…ええっ!」
背中を押さえながら振り向いたミクスが見たものは、額を押さえながら後ろに倒れこむバリッドの姿だった。バリッドの体はすぐ後ろのセイン・アイゾに抱きかかえられたが、そのセインも足を滑らせ、将棋倒しとなってしまった。
「何だか騒がしいぞ」「将棋倒しが起きた」「バリッドさんじゃないのか」事に気付いた生徒や教師らが騒ぐ中、バリッドから始まった将棋倒しは、最後尾のフーミ・サンポンを押し倒すまで続いた。
「つ、冷たい!」教室に戻ったバリッドは、首筋に氷嚢を直に押し当てられ、思わず肩を引込めた。「こういうのはタオルか何かを敷いた上でやるのではないかしら?」
「ハンカチ貸そうか?」ミクスは氷嚢を押し当てたまま、デニムのスカートのポケットを探った。
「いえ、私のがあるから」バリッドはポシェットからハンカチを取り出し、ミクスに手渡した。「でもまさかあのタイミングで、皆が礼をするとは思っていなかったのよ」
「そりゃおかしいよ」ミクスは受け取ったハンカチをバリッドの首筋にあてがい、その上に氷嚢を乗せた。「目上の人がいたら、礼をするというのは原理原則でしょ?」
「原理原則、か…」バリッドは今まで礼をされる側だった自分自身を、この時だけは恨めしく思った。
「いいではないですか、バリッド以外は、怪我らしい怪我をした人もいませんでしたし」話に割り込んだのは、教室に戻ったセインだった。
「首を痛めたのは自業自得だけれど」バリッドはふくれながら、セインの側を見上げた。「ISO子ちゃんも無理に抱きとめないで、素直に避けてくれれば、恥ずかしい思いをするのは私だけで済んだのに、あ痛たたっ!」
「全く、痛がりなんだから」ミクスは氷嚢でバリッドの首を揉み回しながら応えた。「言っとくけれど、一番恥ずかしかったのは突き飛ばされた私だからね」
「揉むならもう少し優しくやって頂戴」氷の角で首筋を揉み回され、バリッドは机に伏せながら唸った。「痛い痛い痛い、そこは揉まないで」
「それより明日ですよ、ホリゾンタ・ルルーが学校で踊ってくれるのは」痛がるバリッドをよそに、セインは自分の肩を抱きながら、ミクスの側へ回り込んだ。「もうJISタウン入りはしている筈ですから、もしかしたらばったり会えるかも知れませんよ」
「いくらJISタウンが狭いからって、そう簡単に会える訳ないでしょ…っと」
「だから『かも知れない』を付けたのですよ、ミクス」セインはミクスから取り上げた氷嚢で、バリッドの肩をさすりながら応えた。「でも運良く会えたら、サインぐらいは貰えるかも知れませんよ」
「断られなければいいけれど…っと、先生だわ」カンザキが教室の扉を開いたのに気付いたバリッドは、セインから受け取った氷嚢を机の中に入れ、姿勢を戻した。
「じゃ、続きはまた後でね」ミクスはスカート越しにタイツを引き上げながら、自分の席へ戻った。セインもバリッドの隣の席に腰を下し、ジャケットの衿を整えた。
授業を終え、校舎から出ようとしたバリッドを、ミクスとセインが呼び止めた。
「一緒に帰ろうよ、バリッド」ミクスは身長の割には大きなスニーカーをばたつかせながら、バリッドの前へ駆け寄った。
「首の方は大丈夫ですか?」靴のベルトを直したセインは、ミクスに続いてバリッドへ歩み寄った。
「ええ、氷が効いたみたいで」バリッドは肩を回しながら応え、ミクスの側を向いた。「ミクスさんの家はどちらに?」
「ボホーメンの大通りの先だから、ちょっと遠いよ」
「デニムの専門店をやっているのですよ、ミクスの両親は」
「なかなか売れなくてね、マネキンの代わりに毎日売り物を着ているのさ」ミクスはその場で軽く跳びはね、デニムのジャケットを揺すってみせた。「まあ只働きだけどね」
その頃パイロ・ウメダは、宅配所の8足トラックの運転席で、荷物の積み上げを待っていた。
「やっぱりあっしも手伝った方がいいですかね」
「いや、ここは俺に任せてくれ」宅配所の親方は、片手で木箱を持ち上げながら応えた。「パイロは運転に専念してくれりゃあいい」
「場所はミード・ケンガーさんのところで良いんですかね」ハンドルの横に掛けられた伝票と地図を見比べながら、パイロは訊ねた。
「大通りは渡らないから、そんな遠くはないぞ」木箱を載せ終えた親方は荷台に乗りこみ、パイロに向けて手を振って見せた。「よし、準備出来たぞパイロ。ぜんまいを回してくれ」
「了解しましたっ」親方の合図を確認したパイロは、ハンドルの中心に刺さった鍵を回し、ペダルを踏んだ。ぜんまいの回る音が車両全体に鳴り響き、同時にトラックの8本足がゆっくりと足踏みを始めた。
校舎を出たバリッド達は通りを横切り、ボホーメンの街中へと入っていった。
「バリッドの家はここから近いんでしょ?」背負い鞄の肩紐を引き上げながら、ミクスはバリッドを見上げた。
「次の交差点を左に曲がるとすぐなのですけれどね」バリッドも肩掛け鞄の紐を引き締めながら応えた。「でもミクスさんのお店も見てみたいですし」
「でも今日は定休日だから、買い物は出来ないよ…んっ?」正面に向き直ったミクスは、急に通りの突き当たりを指差した。「バリッド、セイン、何か変な人がいるよ」
ミクスの指差した先には、共同のごみ箱の蓋を開け、中身を漁る男の姿があった。男は上半身を箱の中にめり込ませながら、穴のあいた鍋や空き缶を路上にばら撒いていた。
「変な人って、雑品屋か何かではないのかしら」バリッドは頬を押さえながら、男の行動を見つめていた。「…って、ISO子ちゃん?」
「止めに行きましょう」手提げ鞄を肩に抱えたセインは既に早足になっていた。「集められたごみを散らかしては、周囲の人に迷惑になります」
「ちょ、ちょっと待ってよセイン!相手がどんな人だか分からないでしょ!」急に走り出したセインに慌てたミクスは必死で後を追い、バリッドもそれに続いた。
「お止めなさい、鉄くずを撒き散らかす、っと」駆け寄りながら男を呼び止めるセインの脇腹を、錆びた薬缶がかすめた。「そこの人、聞こえているのですか」
セインの声に反応するかの様に、男は急に上体を起こした。男は暫く辺りを見まわした後、セインと、遅れて来たミクスとバリッドの側に向き直った。
(よ、よりによってこんなところで!)
男と視線の合ったバリッドは、咄嗟に鞄を構えて顔を背け、ゆっくりと後ずさりした。
「バリッド?…そうか!」バリッドの行動を見たミクスは、慌てて鞄の肩紐を緩め始めた。「ど、どうしよう!襲われちゃう前に何とかしないと」
「バリッドもミクスも、そんな大げさに恐がらないで」セインは鞄を太腿で押さえながら、逃げ腰の二人の手を取り、男の側を向かせた。「こんな所でホリゾンタ・ルルーさんに会えるなんて、滅多に無い幸運ですよ」
「ホリゾンタ・ルルーって…ええっ!」ミクスが男の顔を見上げた直後、緩ませていた肩紐が外れ、背負い鞄が石畳の上に転がり落ちた。「って、何でこんなタイミングで!」
ミード・ケンガーの店の前にトラックを停めたパイロは、窓から乗り出して親方を呼んだ。
「ここでいいですかね」
「相変わらず端に寄せるのが上手いな」親方は親指でパイロを誉めながら木箱を抱え上げ、荷台から降り立った。「パイロはそこで待っていてくれよ」
親方が呼び鈴を押すと、すぐに長髪の若い男が現れた。
「思ったより早かったね」
「ミード・ケンガーさんですね」木箱を石畳の上に降ろした親方は、ポケットをまさぐりながら応えた。「注文の品をお届けに参りました…パイロ?」
「これが必要なんじゃないですかね、親方」トラックから駆け寄ったパイロは、伝票とペンを手にしていた。
「そうか、お前に預けていたのか」親方は頭を掻きながら伝票を手に取り、ミードの側へ向き直った。「それでは伝票にサインをお願いします」
「あの、よろしければサインを貰えませんか?」セインは頬を押さえながら、手帳とペンを男に向けて差し出した。
「ちょっと止めなよセイン」セインの手帳を遮ったのはミクスだった。「ルルーさんは明日の公演の準備で忙しいんでしょ?」
「サインを貰ったら、すぐに帰りますよ」ミクスの手を振りほどきながら、セインはバリッドの側を向いた。「バリッドも鞄を降ろして、挨拶ぐらいしないと」
「本当にすぐ帰るのよね?」鞄で顔を隠したままのバリッドは、セインの手帳が不意に取り上げられたのに気付いた。「それなら…って、ええっ!」
男はセインの手帳を取り上げ、皮で出来た表紙ごと引き裂いてしまった。手帳に付いていたペンも手の平で潰し、飛び散ったインクでバリッド達を黒く染め上げた。
「な、何なのこの人…!」ハンカチで顔を拭いながら、ミクスは男を見上げ、声を張り上げた。「いくら芸術家だからって、大人なんだから、子供達の見本にならなきゃいけないでしょう!」
ミクスの剣幕に動揺したのか、男は急にその場に座りこみ、石畳に何度も額を打ち付けた。通りに響く鈍い音に、今度はミクス達が動揺する番だった。
「そ、そこまでして見本にならなくても!」屈みこんだミクスは、男の額に触れ、頭突きを止めさせた。「頭を打つのはもういいから、破れた手帳を集めてくれるだけでいいから、ええ」
こうして男は、バリッド達と共に手帳の破片を集めることになった。
「住所の部分にインクが被さって…」住所録の破片を空に透かしながら、セインは呟いた。「今日のうちにバックアップできれば良いのですが」
「それにしても、こんな丈夫な皮を紙切れのように破ってしまうなんて…あ、ありがとう」バリッドは男が集めたメモを受け取り、セインに渡した。「これで全部かしら?」
「そう…みたいね」少しだけ腰を上げ、辺りを見まわしながら、ミクスは応えた。「風に巻き上げられて、ということも無いみたいだし」
「それでは、私達はこれで」手帳の破片を鞄に押し込みながら、セインは軽く礼をした。「明日の公演、楽しみにしていますから」
セインの挨拶に対し、男は通りの向こうにあるオープンカフェを指差した。
「食事を奢ってくれるということかしら、ってミクス?」足元に視線を向けたバリッドが見たものは、バリッドのタイツをハンカチで拭うミクスの手だった。
「そういうのは社交辞令だから断らないと」手を止めたミクスは、バリッドを見上げながら応えた。「それに、今食べたりしたら、夕食に響くでしょ?」
「いいではありませんか、お茶を飲むぐらいなら」反論したセインはミクスからハンカチを取り上げ、ミクスのジャケットを拭った。「それに、ルルーさんと直接話ができるなんて、滅多にないことですし」
そうかも知れないけど、と反論しようとしたミクスだが、男は既にカフェへ向けて歩き出していた。
「ちょっとセイン!本当に行く気なの?」男の後に付いて行くセインを、ミクスは慌てて呼び止めた。
「そうでした、ハンカチを返さないと」セインはハンカチを小さく巻き上げ、ミクスに投げ返した。「別に無理して付き合うことはありませんからね」
「全く、肝心なところで非常識なんだから…!」ミクスは肩をすくめながらセインの後を追った。二人のやりとりを眺めていたバリッドも、その後に続いた。
宅配所に戻ったパイロは、事務所の電話が鳴りっぱなしなのに気付いた。
「ありゃっ、こんな時に限って皆外出とは」トラックから飛び降りたパイロは、慌てて事務所の扉へと向かった。「んっ、えっ、とっ、こんな時に鍵が入らなくて」
「パイロ!それは倉庫の鍵だ!」荷台の親方は、パイロが振り向いたのを確かめてから鍵を投げ渡した。
「ど、どうも親方」親方の鍵を使ってパイロは扉を開け、受話器へと飛びこんだ。「はい、クマのマークのボホーメン宅配です…ああミード・ケンガーさんですか」
「ミードさんからって、まさか壊れてたってことじゃ?」事務所へ入った親方は、パイロの後ろで顎を押さえていた。
「何ですって?…そんな馬鹿な!…ええ、ちょっと確かめてみます、10分ほど時間を下さい」受話器を下ろしたパイロは、頭を押さえながら天井を見上げた。「何てこった、もうおしまいだ…!」
「何だ、何が起きたっていうんだ!」親方の甲高い声は、パイロを竦ませ、柱に頭をぶつけさせる結果となった。「っと、済まんかった」
「い、いえ、どうも」眼鏡を直しながら振りかえるパイロのこめかみは、小刻みに震えていた。「ミ、ミードさんに送りました荷物ですがね、な、中身が無いっていうんですよ」
「中身が無いって…確かめただろ?荷台に載せる前に」
「た、確かに、そうでしたがね」
「多分何かの間違いだろうな」帽子のつばを整えた親方は、机の上の鍵を手に取った。「俺はミードさんの所へ行く、パイロは倉庫の中を調べてくれ」
「りょ、了解です…って、そっちは倉庫の鍵でしょうが親方っ」パイロは扉を開こうとする親方の後ろで鍵を振り回して見せた。
カフェのテーブルに座ったバリッド達は、ウェイターが手渡したメニューを、男に向けて開いて見せた。
「写真があるので、もしかしたら説明は要らないと思いますが…」男にメニューを教えていたセインは、バリッドが急に腰を上げたのに気付いた。「バリッド?手を洗うなら…」
「あそこにいるのは…メメリー・ミッカーさんではないかしら」中腰になったバリッドは、店の奥に向けて手を振った。暫くして、小柄な少女が赤いスカーフと濃紺色のスカートを揺らしながら、バリッドの側へ駆け寄った。
「一体何のデートよ、セイン?そんな真黒な格好でさ」セインの頬を指でなぞりながら、メメリーは口を尖らせた。
「ええ、ちょっとした縁でホリゾンタ・ルルーさんとご一緒する機会に恵まれまして」
「ホリゾンタ・ルルー?何それ?」指に付いたインクをセインがナプキンで拭う中、メメリーは男の側へ向き直った。
「IANAポリスの有名なダンサーよ、知らないの?」口を挟んだのはミクスだった。「明日私達の学校で踊ってくれるんだけど」
「知らないわよ、私は学校の生徒じゃないんだから」インクを拭われた指を下ろしながら、メメリーは店の奥へ踵を返した。「それじゃ、私はママと服の買い物の続きがあるから」
「全く、メメリーはケーキと服にしか目が無いんだから」
「今日はシルクのドレスの初売り日だからね、それに私はミクスと違ってデリケートだから、シルクの服でないと駄目なのよ」
「でもその生地、合成シルクではありませんか?」バリッドの横槍に、メメリーは思わず顔をしかめた。その直後、金属音と共に8足トラックが通りに姿を現した。
トラックから降りた男の姿を見て、ミクスは思わずメニューを取り上げた。
「ま、まずい!父ちゃんだ!」メニューで顔を隠そうとしたミクスだが、そのメニュー は父、ミードにあっさりと取り上げられた。
「ミクス!何でこんなところに…んっ?」ミードはミクスの髪を摘み上げながら、その横に座る男に目をやった。「それ、うちで頼んだマネキンじゃないのか?」
「ホリナンタラ・ブブーっていう人なんだってさ」
「ホリゾンタ・ルルーさんですよ、ダンサーの」セインがメメリーの言葉を正した直後、遅れてトラックから降りた親方が、バリッド達の前に辿り着いた。
「ミードさん、見付かった様ですね」親方は男の後ろに回りこみ、脇の下に手を入れた。
「ええ、ミクスが友人と一緒に探して見つけてくれた様で」
「だからマネキンじゃなくて…」ミクスがミードに反論しようとした直後、別の男が銀髪の女性の手を引いて、バリッド達のもとへ近付いてきた。
女性に気付いたバリッドは、慌てて顔を手で覆った。しかし女性は既にバリッドの姿に気が付いていた。
「も、もしかして貴方様はバリ…い、いえ何でも」バリッドの顔を見た女性は一瞬動揺したが、すぐに男の背中に視線を戻した。「ここにいたのですね、ホリー」
「ん?自警団が何で?」男の胸に付けられたバッジを眺めながら、親方は訊ねた。
「やっ、説明が無くて失礼をば」男は『自警団連絡係長 ヘッダン・ボッヘン』と書かれた手帳を親方に向けて見せた。「ホリゾンタ・ルルーさんの奥さんから連絡がありまして、ホリゾンタさんがリハーサルに来ないというので」
「や、でもこれはマネキンで」
「でもこの髪の色は間違いなくホリーです」
「そんな馬鹿な、これをミードさんに届けないとわが社の信用が」
「私だって、ホリーを連れ戻さないと明日の舞台が」
ルルー夫人と親方とが言い争う中、バリッドは『男』の手の甲を凝視していた。
(確かにミードさんのいう通り、マネキンの様に見えるけれど、マネキンが歩いたりものを投げたりする訳はないし…まさか!)
急に立ち上がったバリッドは『男』の背後に回りこみ、親方の手を振り解いた。
「ルルーさん、危ない!」バリッドは『男』の二の腕を握り締め、釣り竿を放る様に投げ飛ばした。しかし『男』は真直ぐに着地し、逆にバリッドを地面に叩きつけた。
「なっ何だ!」「ホリー止めて!」「バリッド!」セイン達が騒ぎ出す中、バリッドは『男』の腕を掴んだまま足元を蹴り上げ、転倒させた。二人は互いにつかみ合ったまま、地面を転がり始めた。
(間違い無い、「ほーむぺーじ」だわ!しかしここで「マークアップ」は…!)
『男』と掴み合いながら地面を転がるバリッドは、必死でセイン達に向けて叫んだ。
「じ、事情がわかりました!」
「な、何です?」
「ルルーさん、ちょっと調子が悪いみたいなんです…っつぅ!」『男』の手刀をかわしながら、バリッドは応えた。「私が何とか落ち着かせますから、皆はマネキンの方を…っ!」
「馬鹿言うな、大人の男に捕まっている女の子を見過ご…うわっ!」不用心に近付いたヘッダンは、急に立ち上がった『男』にバリッドの体を投げ付けられ、テーブルの近くまで吹き飛ばされた。
「ヘッダンさん!…まずい!」上空から錐揉みしながら飛びかかる『男』の蹴りを、バリッドは近くの椅子で防ぎ、ヘッダンを守った。
「うん、息はあるな、頭は打っていない様だが」駆け寄った親方とミードは、慎重にヘッダンを抱きかかえた。「俺達はヘッダンさんを病院に運ぶ、皆は自警団を呼んでくれ」
「分かったよ父ちゃん、バリッドも…」ミクスがバリッドを呼ぼうとした直後、木の板が割れるような音が路上に響いた。
「バリッド!」事態にいち早く気付いたのはセインだった。「あの人、バリッドを抱えたまま倉庫に…!」
バリッドを抱きかかえたまま倉庫に飛びこんだ『男』は、尻餅をつきながら階段を転がり落ち、地下室の床へ倒れこんだ。
「っつぅっ、『ルルーさん』がクッションになっていなければ…」『男』の腕から抜け出したバリッドは、地下室の扉に閂をかけ、室内を見渡した。「この密室の中なら、あとは『マークアップ』を…」
『男』の側に屈んだ直後、バリッドの身体は金色に輝きはじめ、同時に額からV字型の赤い紋章が広がった。
「間違い無い、マネキンに『ほーむぺーじ』が取り付いて…痛っ!」『男』の首を取り外した直後、バリッドは背中に鋭い衝撃を受け、奥の壁に叩きつけられた。「ま、まずい!」
肩を押さえながら振り向いたバリッドが見たものは、ゆっくりと歩み寄る数十体のマネキンだった。腕や首が外されたマネキンや脚だけのマネキン、胴体だけで脚の代わりに一本の金属棒に支えられたマネキンも、壁際のバリッドをゆっくりと追い詰めていた。
「人型のものに拘る『ほーむぺーじ』?」バリッドが立ち上がるのと、マネキン達が飛びかかるのとはほぼ同時だった。
折り重なる様に飛びかかるマネキンは、十数秒後には地下室の天井まで届く『山』と化していた。バリッドの圧死を確信したマネキン達は次々と『山』を降り、元通りに立ち上がったが、バリッドがいたはずの床にあったものは、平たく畳まれたダンボール箱だけだった。
マネキン達が互いを見まわし合う中、ダンボールと反対側の隅にいた女性型のマネキンが急に金色に輝き出した。全身を震わせる『彼女』の頭頂には、天井の水道管に脚をかけてぶら下がるバリッドの手がかざされていた。
「天井に隠れたのは正解だったけれど、か、顔が…」ワンピースとスリップがめくれ上がり、顔を覆い隠す中、バリッドは『マークアップ』を続けた。「よし、これで一つ…」
バリッドの姿に気付いた少年型のマネキンが、自分の腕を投げ付けた。殺気に気付いたバリッドはすかさず床に降り立ち、腕の一撃をかわした。
「壁に穴を開けるなんて、危なかった!」煉瓦の壁に突き刺さった腕を一瞬だけ目を向けたバリッドは裾を直し、完全に金色で被われた先のマネキンを抱きかかえた。「この『ウェブサイト』さえあれば、あとは…!」
その様子を見たマネキン達は一斉に腕や脚をバリッドに向けて投げ付けはじめた。バリッドは『ウェブサイト』を六尺棒の様に振り回し、攻撃を弾き返した。
弾き返された手足は見る間に金色の光に包まれ、『ウェブサイト』と同じ様に動かなくなった。頭や胴体だけになったマネキン達は、ひるむことなくバリッドに向けて体当たりを仕掛けていった。
「四方から取り囲もうなんて…」バリッドは『ウェブサイト』の脚を持ち、その場で回転を始めた。「それなら!」
バリッドが振り回す『ウェブサイト』の前に、マネキン達は悉く吸い付けられ、金色の塊の一部となっていった。死角になる筈の脚や頭を狙おうとするマネキンをも、肥大してゆく『ウェブサイト』は容赦無く捕らえていった。
「これであと一つの筈だけど…」回転を止めたバリッドは巨大な球と化した『ウェブサイト』を床に転がし、部屋の辺りを見まわした。胴体だけのマネキンがバリッドの下腹部に体当たりを決めたのは、その直後だった。
突き飛ばされたバリッドは、ダンボール箱の山に叩きつけられ、床に倒れこんだ。その衝撃で箱の山は崩壊し、バリッドを生き埋めにした。
山の崩壊を見届けたマネキンは、金属製の支柱で箱を掘り返していった。やがてオレンジ色のワンピースの背中が箱の隙間から現れ、マネキンは支柱でその背中を一気に貫いた。マネキンの胴体が金色に輝いたのはその直後だった。
「上着を脱ぐのは良いアイデアだったけれど」マネキンが除けた箱の間に隠れていたバリッドは、完璧にマネキンの肩を捕らえていた。「よし、これで最後ね。あとは…」
バリッドは床に転がる金色の『ウェブサイト』達を一つに固め、マネキンだけを取り出した。全てのマネキンを取り出され、バリッドに投げ上げられた『ウェブサイト』の抜け殻は、倉庫の天井や屋根をすり抜けて上空へと飛び去り、金色の星屑となっていった。
「これで『マークアップ』は済んだけれど」天窓からの光を頼りに、バリッドは地下室の中を見まわした。「本当のルルーさんを見つけ出さないと…んっ?」
ふとバリッドは、先に少年型マネキンが壁にあけた穴に目をやった。
「そうか、断熱のために隙間を作って…ええっ!」バリッドが驚嘆したのは、壁の穴の向こうから人の気配を感じたからだった。すぐさまバリッドは手を壁に当てがい、煉瓦に光を満たしていった。やがて煉瓦は紙箱の様に軽くなり、バリッドの力でも簡単に崩せるようになった。
「や、やっぱり!」煉瓦を半分ほど除けたバリッドが見たものは、バスローブの上から手足をタオルで縛られたホリゾンタ・ルルーの姿だった。「うん、まだ息はあるみたいだけれど」
「こ、ここは、何処で…」ルルーが目を覚ましたのは、その直後だった。「はあっ、バリティア、閣下!何で、こんな、所に…!」
「ルルーさん!」バリッドはルルーを壁から助け出しながら応えた。「行方が分からなくなったと聞いて、探しに来ていたのです」
バリッドがルルーの手足を縛るタオルを外そうとした直後、背後から地鳴りの様な鈍い音が鳴り響いた。それから間もなく扉は破られ、同時にセイン達と自警団員が室内に入りこんできた。
「バリッド!怪我はありませんか?」真先にバリッドを見付けたセインは、壁際にもたれかかるルルーに目をやった。「ルルーさんは?」
「ええ、お蔭様で無事に」バリッドはセインに向けて軽く手を振った後、ルルーに耳打ちをした。
「という訳で、ここでは『バリッド・バリッド』と呼んで下さい、ルルーさん」
「そう、ですか、お忍び、という、訳ですか」ルルーは肩を軽く回しながら、バリッドに頷いた。「分かりました、バリッド、バリッド、様」
「『さん』付けで良いですよ、と」タオルを解き終えたバリッドは立ち上がり、団員に向けて呼びかけた。「団員さん、ルルーさんをお願いします」
保護されたルルーは診察を受けた後、自警団の取り調べを受けた。バリッドらの証言により、長い船旅による疲労が原因という方向でこの事件は処理され、ルルーは釈放された。そして次の日の夕方、ルルーの公演は予定通り行われることになった。
「結局バリッドは来なかったね、学校に」講堂の最前列に置かれた椅子にもたれかかりながら、ミクスは真後ろのセインの側を向いた。
「昼に先生に聞いたら、病院へ行ったと言っていましたよ」舞台に降ろされた幕を見つめながら、セインは応えた。「何でも階段で転んだときに足をくじいたそうで」
「階段って、あの倉庫の?」
「恐らくそうでしょうね」
「ところでミクスさん、マネキンの方はどうなりましたかね」ミクスの横に座るパイロが、二人の話に割り込んだ。
「あのマネキン、パイロ君が届けたの?」
「ええ、トラックの運転をやっていただけなんですがね」
「一応見付かったんだけどねぇ」髪を結ぶゴムを直しながら、ミクスは応えた。「それとそっくりなのが同時に何十体も見付かって、どれがどれだか分からなくなって」
「古い倉庫の地下で見付かったのですよ」
「ええっ、あっしの働いた宅配便の倉庫でですか?」
「少なくとも宅配便の倉庫って感じじゃなかったな、一応倉庫の持ち主を調べているところ…わあっ!」椅子の後ろ足でバランスを取っていたミクスは急に後ろに倒れこみ、セインに抱きかかえられた。
「今度は無事に支えられましたね」セインは微笑みながら、ミクスの席を戻した。「ところで、倉庫の持ち主が見付からなかったら、どうなるのです?」
「恐らく倉庫も中身もうちのものになるんだろうけど、あんなにマネキンがあっても…始まった!」講堂に鳴り響くチャイムに合わせて、ミクスは舞台に向き直った。
チャイムが鳴り終わり、講堂が暫く静寂に包まれたところで、おもむろに舞台の幕が開いた。下手にピアノが置かれているだけで、特に装飾の無いシンプルな舞台だった。
「ピアノの前に座っているのは、ルルーさんの奥さん?」
「セイン、静かに!」振り向いたミクスは、人差し指を口に当てながら、セインを止めた。ルルー夫人による伴奏が始まったのはその直後だった。
伴奏が進むに従い、舞台は次第に明るくなり、やがて上手からルルーがパートナーの手を取りながら現れた。
「そ、そんな!」
「ミクス、静か…ええっ!」ミクスの肩を叩こうとしたセインは、思わず腰を上げた。
「そんな馬鹿な」「何であんな所に」「信じられん」ミクスの列を中心に、講堂は一時騒然となった。
ミクス達が驚きの声を上げたのには理由があった。ルルーのパートナーは、水色のチュチュに身を包んだバリッド、その人だったからだった。
「で、でも先生は病院に行ったって」バリッドの笑顔を眺めながら、ミクスは呟いた。
「先生方が仕組んだのでしょうね、私達を驚かせるために」応えるセインは髪飾りを一つ外し、単眼鏡の様にバリッドの脚線を覗き込んだ。
「だからって、ものには限度が…」
「でもあの動き、本当に舞踊を習っている人のものですよ」
再び静寂を取り戻した生徒達の前で、二人の舞踊は続いていた。ルルーの力強いエスコートを受け、宙を舞うバリッドは、まさに雲の上に遊ぶ妖精となっていた。