バリッドちゃんエピソード#5: 姿無きBODY要素

( published: Apr. 14, 2004 / completed: Mar. 17, 2004 )


いつもより少し早く登校し、教室に現れたバリッドを待っていたものは、一発の閃光だった。

「『我らがプリマ、颯爽と登校』…良いタイトルだと思うんだけどな」閃光の正体は、グラウフ・アノーが手にしたカメラのフラッシュだった。

「何か冷やかしている様にも思えますがね」グラウフの後ろの席に座るセインが横槍を入れた。

「そうかな、この前のリントの記事よりはまだましだと思うんだが」

「それは、学級新聞か何かに載せるのかしら?」肩掛け鞄を持ち替えながら、バリッドは教室の中へと向かった。

「学級新聞なんてとんでもない、JISタウン新聞の記事として送るんだ」

「そ、それって街中に知れ渡るってことでは!」鞄を落としたバリッドは、慌ててグラウフのカメラに向かって飛びかかった。「そんな、紙面を飾るなんて話!」

「いいではないですか、海を渡ってやってきたダンサーと共演したのなら、何も恥ずかしがる理由など」

「それに新聞のトップを飾るほどの記事ではないからね、っとっとっ」グラウフはカメラをリュックサックに押し込みながら、バリッドを押しとどめた。「恐らく紙面の片隅に載るだけだから、それほど注目はされないんじゃないかな」

「そ、そう?」バリッドは憮然とした表情のまま、自分の席へと戻った。「それより、余計なことは書かないように頼むわよ」

「ああ、気を付けるよ。それに、原稿料が出たら美味しい店に招待するから」

「現金で返した方がいいと私は思うけど?」セインは髪飾りを引き上げながら、机の下からノートを取り出した。「それよりバリッド、昨日の授業の分ですよ」

「ノートを貸してくれるのね」バリッドはセインからノートを受け取り、内容を1ページずつ確かめた。「昨日は植物学と文法があったのね」

「幾何もですよ」鞄から教科書を取り出しながら、セインは応えた。「明日までに返してくれればいいですから」

「ありがとう」バリッドは鞄からノートと筆箱を取り出し、セインのノートを書き写しはじめた。


バリッドが授業を受けている頃、ヘッダン・ボッヘンは首のコルセットを押さえながら、フラット・オハギーノの呼び鈴を鳴らしていた。

「失礼しまーす、自警団の者なんですけど…うわあっ!」ヘッダンは、開かれた玄関から飛び出した顔を見て、小さく飛び退いた。

「誰だ、貴様は!」玄関から現れたのは、度数の強い丸眼鏡に黄色い覆面をした中年の男の顔だった。

「い、いえ、家の中で覆面をしている人というのは、あまり見ませんので、ええ」家の男のあまりにも威圧的な態度に、ヘッダンは思わず肩をすくめた。「え、ええっと、管理人さんでいらっしゃいますか?」

「ふん、腐った空気から脳を守るのがそんなに悪いか」男は憮然とした表情のまま、覆面の下半分を降ろし、顔をヘッダンに見せた。「キネコ・シーなら買い物に行っているぞ」

「そ、そうですか」ヘッダンは暫く鞄の中を探ったあと、数冊の小冊子を取り出した。「それならこれを、管理人さんをはじめ、同居している皆さんに配って下さい」

「『異常現象から身を守るために』…だと?」男は眼鏡を押さえながら、冊子の表紙に顔を近づけた。

「ええ、看板の文字が突然消えたり、牛がいきなり暴れたり、巨大な黒い塊が現れたり、といった奇妙な現象が起きているという連絡がありまして」

「で、何が言いたい!」

「ですから、そういうときの為の対処法を、この本で紹介していると」

「ふん、どうせ自警団への電話番号ぐらいしか書いていないんだろ」男は覆面を元に戻しながらヘッダンから冊子を取り上げた。「で、用件はそれだけか?」

「は、はぁ」

「だったらとっとと帰れ!我輩は貴様と世間話をしている暇は無いのだ!」男はヘッダンの眼前で怒鳴り散らした後、勢い良く扉を閉じ、中から鍵をかけた。階上から何かが落ちる音が響いたのは、その直後だった。


「ええい、あの自警団の馬鹿のせいで」2階に上がった男は、自分の部屋の扉から落ちた名札を拾い上げた。「ぬうっ!文字が壊れて『パッハー・トホ』が『バカトホ』に見える!」

パッハー・トホはこめかみをぴくつかせながら部屋に飛びこみ、乱暴に扉を閉じた。そして名札を膝で叩き割り、冊子を床に何度も叩きつけた。

「このっ!馬鹿自警団のせいで!今度会ったら叩きのめしてやる…んっ?」既に綴じ紐も外れ、ばらばらの紙片となった冊子の一ページに、トホは釘付けになった。「こ、これは…!」

暫く文面を眺めていたトホは、部屋の脇に積み上げられた本の山に向かって掛け込み、一冊の本を抜き出した。

「やっぱりな…」バランスが変わり、今にも倒れそうな本の山には目もくれず、トホは手許の本と冊子とを読み比べ続けた。「間違いない、これはW3Cの伝説で語られる『ほーむぺーじ』だ…んっ!」

トホが本を閉じた直後、部屋の扉が急に開かれた。買い物から戻った管理人、キネコ・シーだった。


「パッハー・トホさん?上からものすごい音がしたから、慌てて見に来たんだけど」

「何だ、帰ってきたのか」本をベッドの下に隠したトホは、覆面を下しながらキネコの側へと向かった。「我輩はドクター・トホだぞ、そんな本の下敷きになるなんて馬鹿な…うおっ!」

部屋の本の山が一斉に崩れたのはその直後だった。けたたましい音と埃が室内を満たし、数百冊もの本が床を被い尽くした。

「確かに…下敷きにはならなかったけど」部屋の惨状を見わたしながら、キネコはトホの足元の本を拾い上げた。「いい加減古本屋に売るなり、図書館に寄付するなりした方がいいんじゃないかしら?」

「ここにある本は天才にこそふさわしいものだ」キネコから本を取り上げたトホは部屋の奥に戻り、本を隅に寄せ始めた。「JISタウンの愚民共に明渡すぐらいなら、豚にでも食らわせてやるわ」

「そんな、自分一人で何でもやろうとして」キネコは憮然とした表情で、トホの作業を眺めていた。「言えば私が手伝ってあげてもいいのに」

「じょ、冗談ではない!」覆面を戻しながら、トホはキネコに向けて怒鳴った。「本の管理は我輩が責任を持って行っている!管理人とはいえ、素人にいじられる筋合いは無い!」

部屋の奥から戻ったトホは本を片手に一杯抱えたまま、キネコの目の前で乱暴に扉を閉じた。直後、本が崩れる音とトホの怒鳴り声が扉を貫き、フラット全体に鳴り響いた。

「本当、頑固なんだから…」部屋から締め出されたキネコは、肩をすくめながら階下の台所へと向かっていった。


授業を終えたバリッドは、セイン達と共に画材店に立ち寄っていた。

「いらっしゃいませえ、今日は新しい絵の具が入りましたよお」店の奥から、エロリー・ムーンがタオルを片手に現れた。

「そうか、ここはエロリー君のお父さんの」バリッドは肩掛け鞄を下しながら、エロリーの側を向いた。

「はい、父はもともと紙漉き職人だったのですがねえ、画家の皆さんと親しくなってゆくうちにこういう店をお」

「ムーン紙といって、JISタウンでは非常に有名なのですよ」軽く背伸びしたセインは、一枚の紙を棚から取り出し、バリッドに見せた。「真白とは違う生成りの色合いや光沢の控えめな感じ、素敵だと思いませんか」

「確かにこういった紙は、W3Cランドではなかなか」紙の手触りを確かめるバリッドは、ふと壁に掛けられた油絵に目を向けた。「あれは、ISO子ちゃんの?」

「これはあ、半年前に僕が書いた絵ですねえ」ランニングシャツを引き下しながら、エロリーは応えた。「モデルはその通り、セインさんなんですねえ」

「誰か先生に習っているのかしら?」セイン本人の生き写しの様なエロリーの絵を眺めながら、バリッドは訊ねた。

「初めは見様見真似でやっていたんですがねえ、常連の画家先生から色々教えてもらいましてえ、ええ」

「ところでエロリー」二人の話に、筆洗を手にしたミクスが割り込んだ。「エロリーはやっぱり画家を目指すの?それとも親の仕事を引き継ぐの?」

「それはあ、まだ考えていませんねえ」タオルで手を拭いたエロリーは、ミクスの側を通りぬけ、缶の中の筆の束を調べた。「僕の絵があ、どれだけ通用するかあ、分かりませんしねえ…んんっ?」

エロリーは手を止め、入り口の側に視線を向けた。その先には覆面をした男が、筒状に丸められた紙の束を調べていた。


「ちょ、ちょっとあの人」ミクスはセインのスカートを引張りながら、その背後に隠れようとした。「覆面をして店に来るなんて、強盗だったらどうしよう…!」

「でもあの腰つきでは、強盗というよりも万引きの方がありそうですよ」軽く背伸びをしながら、セインはミクスの肩を撫でて落ち着かせた。

紙筒を数本手に取った男は店の中へ入り、エロリー達のいる通路を真直ぐに突き進んでいった。

「わあっ、来た…!」男の接近に、ミクスは小さい体を更に縮こまらせた。

「貴様はこの店の店員だな?」男は威圧するかのようにエロリー達を見下ろした。

「はい、そうですがあ」エロリーは動じることなく、男を見上げた。「念の為、覆面を下してくださいませんかあ」

「ふん、やっぱりここでもマスク禁止か」男は眼鏡を直しながら、面倒臭そうに覆面を下し、顔を見せた。「ん?何だ、バリッドか」

「バリッドの知り合いで?」

「パッハー・トホさんといって、私と同じフラットに住んでいる人なのだけれど」セインの問いかけに、バリッドはカチューシャを直しながら応えた。「話をしたのはまだ1回か2回で」

「は、早く買い物済ませて帰ろうよ」セインの後ろでは、ミクスが震えながらバリッドの側を見上げていた。トホは怯えるミクスを一瞬見下ろした後、エロリーの側へ向き直った。

「この紙筒は三本でいくらだ?」

「この紙はあ、値札がありませんねえ」紙筒を受け取ったエロリーは、筒を結ぶ紐を眺めながら応えた。「少々お待ちを、調べてきますのでえ」

エロリーは筒を抱えたまま、店の奥に消えた。トホは憮然とした表情のまま、バリッド達を横目で見下ろした。

「あの、トホさんはポスターを描かれるので?」

バリッドの問いかけに、トホは急に向きを変え、仁王立ちになった。トホの顔は見る間に真赤に染まり、握り拳は地震の様に震え始めた。

「ま、まずいこと訊いた…?」今にも怒鳴り出しそうなトホの形相に、ミクスはセインのジャケットで顔を隠そうとした。その様子に気付いたセインは、ミクスをかばう様に少しだけ前へ踏み出した。

「馬鹿が、子供相手に怒鳴り散らすとでも思っていたのか」平静を保ったまま応えるトホだが、こめかみの震えは続いていた。「我輩はドクター・トホである!ドクターたるもの、些細なことで精神を消耗しないものである!」

「やはり怒っている様ですね」セインはジャケットの袖を伸ばしながら、バリッドと顔を見合わせた。

「ええいあの紙漉きの小僧!単に値段を調べるだけのことで何を手間取っているのだ!」眼鏡を直したトホは、さもいらいらした様子で、爪先を小刻みに鳴らした。「我輩の貴重な研究時間をこうまでして台無しにするとは…!」

「研究…ですか?」肩掛け鞄を持ち替えながら、バリッドは訊ねた。

「ああ研究だとも、貴様らには決して理解できない、高度な研究をな」

「それは仕方ないですけれど、せめて概要ぐらいは聴かせてもらえませんか?高度な研究をされるドクターの話を直に聴く機会など、そうそう無いことですし」

セインの言葉に神経を逆撫でされたトホは唇をひきつらせ、拳の震えを更に早めた。その様子にミクスは親指で耳を塞ぎながら、頭を手で被った。しかしバリッド達に真に衝撃を与えたものは、直後にトホの口から吐かれた言葉だった。


「貴様ら、『ほーむぺーじ』というのを知っているか?」

その言葉と共に、バリッド達の周りの空気は凍りついた。不意に肩が震え出したのを感じたバリッドは、鞄のベルトを伸ばしながら、固まった唾を飲みこんだ。

暫くの沈黙の後、トホは話を続けた。

「さすがのW3Cランドの留学生も知らない様だな」白衣の衿を直したトホは、得意げにバリッドを見下ろした。「ならば特別に教えてやろう、最近このJISタウンで文字が消えたり牛が暴れたりする怪現象が起きたりしているのは知っているな?」

「でもあの牛は、季節の変化のせいで…」

「ハァ!これだから素人は!」セインの言葉にトホは呆れたように背中を向け、そのまま通路を歩き回り始めた。「我輩はこの件について独自の調査を行ったのだ…そしてその結果!」

「な、何?」恐る恐る顔を上げたミクスは、入り口の前に立つトホが白衣の中から何かを取り出そうとしているのに気付いた。

「この本だ!」急に振り向いたトホの手には、文庫サイズの小さな本が握られていた。「この本、『W3Cの伝説』に書かれている『ほーむぺーじ』が引き起こした、異常現象との類似点を多数発見したのだ!」

「は、はあ…」腰の力が抜け、後ろに倒れそうになったバリッドだが、パレットの棚につかまり、何とか体勢を取りなおした。「だ、だからといって、今この街で起きていることを全て『ほーむぺーじ』のせいに決めつけるのは…」

「だからだ!」トホは本を振り回しながら、バリッド達のところへと歩き寄った。「だから我輩は、『ほーむぺーじ』捕獲装置を使って、事実を確かめようとしているのだ!そうすれば我が名は全世界に…来たか!」

トホの視線の先には、紙筒を脇に抱えて現れるエロリーの姿があった。

「いやあ、すみませんねえ」エロリーは首に巻いたタオルで額を拭いながら応えた。「何で値札が無いのかと思ったらあ、これは規格外ということでえ」

「だから、何だ?」

「よろしければあ、正規のものと交換しますがあ?」

エロリーの脇に抱えられた紙筒を眺めながら、トホは暫く考え込んだ。

「なら…」トホはよれたスラックスのポケットをまさぐりながら応えた。「その規格外とやらを銅貨一枚ずつでどうだ?」

「言い値という訳ですかあ…本当にいいんですかあ?」

「これは我が研究の為である…うおっ!」エロリーの前に突き出されたトホの手から、勢いを増した銅貨が飛び出し、棚の下へと転がり込んでいった。「代金は出したぞ!我輩は帰らせてもらう!」

トホはエロリーの脇から紙筒を取り上げると、そのまま店の外へと歩き去り始めた。

「あ、ありがとうございましたあ」エロリーの気の抜けた挨拶が、トホの背中に向けて飛び去っていった。バリッド達も、店の外へと消え行くトホの後姿を呆然と眺め続けていた。


「そ、それは一大事ではありませんか」自室のベッドに腰掛けるバリッドの膝の上で、チディベアは頭を抱えた。「よりによって、『ほーむぺーじ』の専門家が同じ屋根の下に住んでいるとは」

「私も、初めて話を聞いたときには驚いたわ」バリッドはチディベアを抱き寄せ、その頭を優しく撫で回した。「でも何故か途中で腰が砕けそうになって」

「そんな呑気なこと言っていられますか、我々の身分が明かされるのかも知れないのですぞ」

「問題はトホさんがどれぐらい『ほーむぺーじ』について知っているかだけど」バリッドはチディベアを抱きかかえたまま立ち上がり、夕焼け空を映し出す窓にカーテンをかけはじめた。「少なくとも私がこの前読んでいた『W3Cの伝説』の内容は大体知っているみたいよ」

「『W3Cランドの物語の新解釈』とかいっていたものですよね」

「でもそんな重要な研究だったら、一人ではなく、もっと沢山の人と…んっ?」

バリッドはふとチディベアを机の上に座らせ、天井に向けて耳を澄ませた。暫くして、何か本の山らしきものが崩れる音と、男の悲鳴らしきものがバリッドの耳に向けて飛びこんだ。

「この声は…トホさんだわ!」


部屋を出たバリッドは階段を駆け上り、トホの部屋の扉を叩いた。

「トホさん!トホさん!大丈夫ですか!」ドアノブを捻りながら、バリッドはドアの奥に向けて叫び続けた。「本に埋もれたとかいうのではないでしょうね」

「バリッドちゃん!どうしたの?」台所から掛けつけたキネコは、居間からバリッドを見上げながら訊ねた。「その部屋は…トホさんね?」

「本か何かが倒れる音と、トホさんの悲鳴らしいものが聞こえたんです」バリッドは振り向きながら、扉のノブを回し続けていた。「本の下敷きになったのかも」

「だとしたら助け出さないと…ってぇ」エプロンのポケットを探ろうとしたキネコは、両手が皮を剥いた長芋で塞がっているのに気付いた。「ちょ、ちょっと待って、手が離せなくて」

「合鍵はポケットの中?」キネコの動揺に気付いたバリッドは階段を降り、キネコの側に駆け寄った。

「きょ、今日はそうだけど」

「鍵は201ですよね」エプロンのポケットから鍵束を取り出したバリッドは、すぐさま階段へと向かった。「使ったらすぐ返しますから」

「バ、バリッドちゃん!鍵は409を使って!」キネコは両手の長芋のことも忘れて、バリッドの後を追った。


鍵を挿し込んだバリッドはドアノブを回し、錠が開いたのを確かめた。

「トホさん!大丈夫ですか?」バリッドはゆっくりと扉を開き、部屋の中を覗きこんだ。「ええっ!そんな馬鹿な!」

「馬鹿というか何というか…」バリッドの後ろで、キネコは呆然と部屋の中を眺めていた。「よくここまで整理したわね」

「ということは、さっきまでは酷く散らかっていたと?」

「昼ぐらいに見たら、本の山が倒れて床が見えないほどだったのよ」壁際に整理された本と、ベッドの上で熟睡するトホの姿に、キネコは胸を撫で下ろした。「でも本当に騒ぐ音を聞いたの?」

「そう…だけど、気のせいだったかも…」目の前の様子に、バリッドはたちまち縮こまってしまった。「ご、ご免なさい、忙しいところを邪魔してしまって」

「昨日の舞台の疲れ、まだ取れていないんじゃないの?」長芋を左手に集めながら、キネコは応えた。「先に風呂に入って、ゆっくりしていらっしゃい。上がる頃には長芋のカレーが出来ていると思うわ」

「わ、分かったわ」

「それと鍵は、テーブルの上に置いておいてね」バリッドの側を見ながら、キネコは階段を降り、台所へと向かっていった。


夕食を終え、ベッドに入ったバリッドは、天井を見つめながら先程の出来事を思い出していた。

「確かにあの時、天井からの騒ぎ声を聞いたのよね」枕元のチディベアを抱き寄せながら、バリッドは少しずつ眠りの世界へと入ろうとしていた。「でも部屋の中のトホさんはよく眠っていた…やはり空耳か…」

やがてバリッドの目の前に、学校帰りに立ち寄った画材店の風景が蘇った。既に夢の中に入っているのだと、バリッドは理解した。

「そういえば今日が初めてだったわね、トホさんと直接話をしたのは」夢の中のトホは黒い紙筒を脇に抱え、銅貨3枚をエロリーに渡していた。「ん?トホさんが買った紙って何色だったかしら?」

直後、風景は夜の運動場に変わった。月明かりの中、トホは紐を外して先の紙を広げていた。

「ええっ?何でトホさんが運動場に?」唐突な風景の変化に戸惑う間も無く、バリッドの前では新たな変化が起きていた。床に広げられた黒い紙は突如トホに飛びかかり、食虫植物の様に取りこんでしまった。トホを取りこんだ『紙』はアメーバの様に暫く床をのた打ち回りながら、次々と分裂を引き起こしていった。やがて運動場を埋め尽くす程に増殖した『紙』達は、細長く伸び上がりながら枝分かれを始めた。

「紙筒があんなに…ああっ!」気が付くとバリッドは倉庫の地下で、黒いマネキン達から伸びる無数の触手に取り囲まれていた。「マネキン…触手…紙筒…そうか!」


「わああっ!」

真横から突如飛びこんだ悲鳴で、バリッドは現実に呼び戻された。枕元のチディベアの声と気付くのに、バリッドは少しの時間を要した。

「お、驚かさないでよチディベア」

「それは私の台詞ですよ、姫さま」バリッドの横顔を眺めながら、チディベアはシーツの下で手をばたつかせていた。「急に『そうか!』なんて叫ぶから、何があったのかと」

「も、もしかして寝言で起こした?」起こした上体を肘で支えながら、バリッドは応えた。「分かったのよ、トホさんの部屋で起きていることが」

「さっき上から騒ぎ声が聞こえる、といっていたあれですよね」

「トホさんは夕べエロリー君の店で紙を買ったのよ」更に上体を起こし、ベッドの背にもたれかかりながら、バリッドは続けた。「規格外ということで言い値で買って行ったのだけれど、それが紙ではなく『ほーむぺーじ』そのものだとしたら」

「ま、まさか」

「そして部屋で熟睡している姿が、『ほーむぺーじ』の見せる幻だったとしたら」

「そんな馬鹿なことある訳…」上体を起こしたチディベアは、顎を押さえながら唸った。「あるか…」

「だから、トホさんの部屋に入って、『マークアップ』をしないと」

「ちょ、ちょっと待って下さい姫さま」慌てたチディベアは立ち上がり、手を激しく上下に振った。「それでは部屋の主の目の前で『マークアップ』をすることになりませんか?」

「だからよ」バリッドはチディベアの手を取り、視線の高さを合わせながら応えた。「チディベアにも協力して欲しいのよ」

「きょ、協力、ですか…」


チディベアを抱えて部屋を出たバリッドは、爪先だけで静かに2階へと上がった。

「まずは鍵を開けるわね」トホの部屋の扉に触れたバリッドは手を金色に輝かせ、部屋の奥に向けて意識を集中した。暫くしてサムタンの回る音が扉を響かせ、ドアノブに回転の自由を与えた。

バリッドはノブを回し、錠が外れたのを確かめた後、ゆっくりと扉を開いた。

「眠っていますね、このパッハー・トホさんという人は」バリッドの腕の中で、チディベアは部屋の奥を見まわした。

「私の予想が正しければ、これは『ほーむぺーじ』が見せている幻よ」浴衣の上からタイツを引き上げながら、バリッドは応えた。「恐らくこの幻の奥に、本当のトホさんが」

「私にはそうは見え…っと」反論した直後、チディベアは左耳をバリッドから引き抜かれ、反射的に頭を押さえた。「わあっ!あまり大声で話さないで下さい!」

「ご免ね、ちゃんと聞こえる様ね」バリッドはチディベアの左耳に向けて、マイクの様に声を通していた。「チディベアの声もよく聞こえるわ」

「し、しかし何故私の耳を」短い手で頭をさすりながら、チディベアは訊ねた。

「チディベアにはトホさんの様子を私に知らせて欲しいのよ」

「で、でも起きていたら…」

「その時はうまくトホさんの気を引き付けるのよ」廊下に片膝をついたバリッドは、チディベアを床に立たせながら応えた。「あなただって、少なからず『マークアップ』の力を持っているのでしょう?」

「そ、そりゃあ…」チディベアは脚を屈伸させながら、両手がかすかに金色に輝くのを確かめた。「分かりました、やってみます。でも出来るだけ早く援護に来て下さい」

「ええ、それは勿論」バリッドはチディベアの肩を軽く抱いて励ました。


冷たく固い床の上で、トホは目を覚ました。

「ぬうっ…ゆ、夢か…」暗がりの中で体を起こそうとしたトホは、腹筋に無理な力を感じ、直ぐに倒れこんだ。自分の体が何か紙のようなものに包まれているのに気付いたのは、その直後だった。

「な、何だこれは!それに何だここは!」

暗がりに目の慣れたトホは、周りの光景に思わず顎を外しかけた。いつもの部屋の十数倍の広さを持つ、大広間の中心に寝頃がされているのに気付いたからだった。

トホは手足の自由を取り戻すべく、芋虫のように床を転がりまわった。暫くして広間の壁らしき場所を視界に捕らえたトホは、悲鳴とともに顔を真青に染めていった。

「ぬおっ!我輩の貴重な資料が!」トホが見たものは、広間の片隅で大量の本を引き裂きながら取りこんで行く、巨大な紙筒だった。「これ以上!これ以上資料を破られてはあっ!」

怒りで頭に血が上ったトホはいつもの倍の力を発揮し、巨大な塔の様に立ち上がった。そのまま『紙筒』に向けて飛び跳ねて行こうとしたトホだが、

「ぐはっ!」トホの首筋に突如重い衝撃が走り、手足の感覚を奪った。視界が真白に染まってゆく中、トホが最後に気にしたものは、自分の眼鏡が床で割れないかどうかだった。


気を失ったトホは倒木の様に真直ぐに倒れこんだが、顔面を床に打ち付ける直前で小さな青い物体に抱き止められた。

「ふうっ、危うく眼鏡が割れるところ…」トホの顔を抱き止めたのは、チディベアだった。「って、眼鏡ではなく覆面でしたか」

トホを床に寝かせたチディベアは、先に首筋の様子を調べた。

「ちょっと強く蹴りすぎましたかね…っと」トホの首筋をさすりながら、チディベアは頭を上げた「姫さま、部屋の人は気を失っています。『マークアップ』をするなら、うわっ!」

チディベアが悲鳴をあげたのは、急に何者かによって首を摘み上げられたからだった。別の『ほーむぺーじ』に捕まったと気付いた頃には、チディベアの体は竜巻に巻き込まれた建物の様に振り回されていた。

「しまった!部屋の奥に気付かなかった!」チディベアを捕らえたのは、先にトホの本を大量に取りこんで巨大化した『紙筒』だった。「しかし、部屋の人に被害を与えるわけには…!」

首を捕まれたままのチディベアは、辛うじて自由の利く右腕をトホに向けて投げ飛ばした。胴体から離れた右腕はトホの体に取り付くと同時に金色に輝き出し、トホを被う『紙』を金色の塊に変えていった。

「これで部屋の人は安全ですが…」チディベアは『紙筒』の足元がが金色に輝くトホに弾かれるのを確かめた。「『マークアップ』出来ないまでも、動きを封じるぐらいなら…」

チディベアは残った左腕を必死に振りまわし、『紙筒』を捕らえようとした。しかし勢いの付き過ぎた左腕は『紙筒』を大きく外れ、部屋の隅に転がり落ちてしまった。

「し、しまった!」両腕を失ったチディベアは必死で脚を振り回したが、『紙筒』を振り解くには遠く及ばなかった。抵抗を受ける心配が無いと気付いた『紙筒』はチディベアを床に叩き付け、全体重をチディベアの背中に乗せ始めた。

「こ、このままでは潰されて…!」数十倍に膨れ上がった『紙筒』の自重の前に、チディベアの意識は白い世界へと吹き飛ばされかけていた。「W3C子さま、お助けを!」


しかし直後に消滅したのは、チディベアの意識ではなく、体を押さえつける力だった。急に体が軽くなったチディベアは、辛くも生き延びた意識を生かして、白くぼやけた世界を見まわした。

「おお!W3C子さま!」金色に輝きながら駆け寄る人型の姿に向けて、チディベアは思わず叫んだ。「…でなくて、姫さまでしたか」

「両手も失って、大分やられたみたいね」バリッドはチディベアを優しく抱き上げ、左耳と右手を胴体に繋げた。「呼び声を聞いて直ぐに掛け付けたつもりだったのだけど」

「どうやら部屋を広くする力を持っている様ですよ、この『ほーむぺーじ』は」

「恐らく三体一組の『ほーむぺーじ』ね」トホを包む金色の『ウェブサイト』を横目で見つつ、バリッドは巨大な『紙筒』に向き直った。「あの『紙筒』を『マークアップ』すれば、あとは直ぐに片付くと思うけれど」

バリッドの額の前にV字型の紋章が現れ、両手に向けて金色の光を放った。

「気をつけて下さい、あの『紙筒』の力は」

「なら、力で戦わなければいいのよ」バリッドはチディベアの頭をかばうように抱きかかえ、ゆっくりと『紙筒』へと歩み寄った。


バリッドの姿を認めた『紙筒』は口から本の残骸を吐き捨て、バリッドに向けて飛びかかった。果てしなく広がった『広間』の中を縦横無尽に飛び回る『紙筒』の突進を、バリッドは転がりながら躱していった。

「な、何で反撃しないんですか!」目の前を横切る『紙筒』の速さに、チディベアは耳を小刻みに震わせていた。

「手の平一つ分の幅で躱す必要があるのよ」右手で受身を取ったバリッドは、立ち上がりながら『紙筒』に向きを合わせた。「あの動きは素早いけれど、動きは規則的だから、立つ位置を見付ければ」

「そ、そうでしょうけれど…うわっ!」左腕に掴まるチディベアは、バリッドが目を閉じているのに気付いた。「ひ、姫さま!目を閉じたりしたら危ないですよ!」

「浴衣の中なら安全よ、チディベア」バリッドは右腕を高く上げ、無防備の上体を『紙筒』に晒した。

バリッドが動かないと見た『紙筒』は、ここぞとばかりに勢いを付け、バリッドに襲いかかった。バリッドの粉砕を『紙筒』が確信した直後だった。

「そう、この幅!」『紙筒』が手の平一つ分まで近付いたところで、バリッドは背中をほんの少しだけ後ろに逸らした。突進の勢いを脇腹で感じながら、バリッドは『紙筒』の背中に掴まり、一気に飛び乗った。

「よし、ここに乗れば!」『紙筒』の尾の上に立ったバリッドは、脚を金色に輝かせ、頭の部分に向けて一気に駆け出した。壊れた吊り橋の様に全身をうねらせ、振り落とそうとする『紙筒』だが、バリッドの走りは川を流れる舟よりも正確だった。

「ひいっ、回っていますよ姫さまっ」

「もう少しよ、チディベア」上空で何度も天地が反転する中、バリッドは『紙筒』の背中を走り続け、遂に頭の部分まで辿り着いた。「よし、これで『マークアップ』が出来るわ」

バリッドの走りぬけた後には、金色に輝く足跡が残っていた。やがて足跡は一本に繋がり、『紙筒』の背中を鰻の様に切り裂いていった。バリッドを突き落とすべく、最後の抵抗を続ける『紙筒』だが、次第にその力も弱まり、やがてゆっくりと床の上に着地していった。

「あとは全部まとめて『マークアップ』すれば…」『紙筒』を切り開き、平たく床に広げたバリッドは、その前に屈みこみ、手をかざした。間もなく金色の光は広間の床を通じ、遥か遠くの壁や天井にまで広がった。

「おお!広間が、小さくなっていきます」広間の壁や天井は見る間に近付き、元通りのフラットの一室に姿を変えていった。「良かった!私の左手も見付かりました」

「トホさんも無事の様ね、ベッドでなくて床の上だけれど」チディベアが左手を拾いに行くのを横目で見ながら、バリッドは部屋の中の金色の塊をかき集め、西瓜ほどの大きさの球に纏め上げた。「よし、これで『ウェブサイト』になったわ」

最後にバリッドは部屋の窓を開け、『ウェブサイト』を空に向けて投げ上げた。『ウェブサイト』は満月に向けて飛び去った後、鈴の音と共に星屑の一部となった。


翌朝、いつも通り部屋を出たバリッドは、台所のキネコに向けて挨拶した。

「おはようございます、キネコさん」

「おはよう、バリッドちゃん」振り向いたキネコは急に頬をゆるめ、口を押さえた。

「キネコさん、妙に嬉しそうだけど?」

「い、いや、そりゃあ、もう、ねえ」キネコは包丁をまな板に置き、得意そうに頷いた。

「はっきりしないのね、キネコさんにしては…って」洗面所へ向かおうとしたバリッドはふと、テーブルの上に広げられた新聞に目を向けた。「も、もしかして、これ?」

「いい写真だとは思わない?それ」

「そんな!トップを飾るなんて!」

新聞の第一面を飾っていたのは、ほぼ紙面全体にまで引き伸ばされた、ホリゾンタ・ルルーとの公演写真だった。写真の中でルルーに抱き上げられる自分の笑顔に、バリッドは頬をひきつらせながら、新聞を取り上げた。

「た、確かに、紙面の片隅とは聞いていたけれど」バリッドは同じ一面の片隅に、昨日グラウフが撮ったと思われる写真を見つけた。「『我らがプリマ、颯爽と登校』はいいけど、第一面でここまで派手に書かれたら…!」

「あら、バリッドちゃんの友達が書いたの?それ」

「同じページにある、コラムらしい記事をね…って」頬を押さえながら新聞をテーブルに置いた直後、バリッドの背後から甲高い悲鳴が飛び出した。暫くして、けたたましい音と共に、トホが部屋から飛び出した。

「管理人!電話を借りるぞ!」トホは階段を3段飛ばしで降りながら、電話台へと突進した。

「どうしたの?そんなに大騒ぎをして」

「いちいち説明する必要があるか!」乱暴に受話器を取り上げたトホは、落ち着かない様子でダイヤルを回した。「ええい、こういう日に限って繋がらない…!」

「トホさん!そんな乱暴にやったら…!」バリッドが止めに入ろうとした直後、電話機のダイヤルが外れ、本棚の下へと転がり込んだ。「って、手遅れだったか…」

「ええい、こうなったら!」受話器を投げ捨てたトホは、ダイヤルには目もくれず、玄関に向けて突進した。「管理人!ここから一番近い自警団の駐在所はどこだ!」

「ええと、大通りの端の方に一つあったと思ったけど」キネコが応えた頃には、既にトホは玄関を開け、大通りに飛び出していた。

「自警団を呼ぶって、一体何があったのかしら…」受話器を戻しながら玄関を見つめていたバリッドは、ふと手を打ち、2階へと向かった。「まさか部屋の中で何かが…」


2階に上がったバリッドは、半開きのドアからトホの部屋を覗きこんだ。

「そうか、部屋のものが何か無くなって…キネコさん?」

「恐らく本じゃないかしら」キネコはバリッドの後ろから、部屋を覗きこんでいた。「でも全部無くなるとはねぇ」

「昨日までは溢れかえるほどあったのですよね?」

「ええ、それこそ床が抜けそうになる程にね」部屋に入ったキネコは、ベッドの上に転がされた数冊の小冊子を見つけた。「あら、パンフレットはあったみたいよ」

「『異常現象から身を守るために』…ですか」バリッドも部屋に入り、ベッドの上の小冊子を拾い上げた。「ああ、この前の牛とか文字とかの話も載っているわ」

「ということは、トホさんの本を消したのも、その『異常現象』かも知れないわねえ」

「そう、かも知れませんね…」バリッドは軽くため息をつきながら、窓から大通りを覗きこんだ。「あの人、この前の自警団の人ではないかしら」


「たっ、助けてくれえっ」ヘッダンは首のコルセットを押さえながら、大通りを逃げ惑っていた。「昨日の覆面男だあっ」

「待ていっ!市民を守るのが自警団の義務だろうが!」ヘッダンを追うのは、昨日と同じ覆面を付けたトホだった。「我輩の話を聞け!貴様に用がある!」

「だからって、そんな剣幕でっ」

「貴様が足を止めれば全て済むことだろうが!」頭に血が上ったトホは、覆面を下しながら怒鳴った。「それだけの簡単なことを、何故我輩の前でやらぬか!」

「だっ誰かあっ、助けてえっ、殴られるうっ」明け方で人通りの少ない大通りに、ヘッダンの悲鳴が鳴り響いた。


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作:Nishino Tatami (ainosato@vc-net.ne.jp)