バリッドちゃんエピソード#6: セパレータPを撃て

( published: Apr. 21, 2003 / finished: Jun. 3, 2003 )


「ひいっ、たっ大変だあっ」パイロ・ウメダは職員室へ続く廊下をよろめきながら走り抜けようとしていた。「誰かっ、来てくださぁいっ」

「パイロ君、何を慌てているんだね」洗面所から現れたショー・カンザキがパイロを制止した。「それに、そんな走り方じゃ、脚がもつれて転んでしまうんじゃないか…て遅かったか」目の前で後ろ向きに倒れ込んだパイロを、カンザキは助け起こした。

「すっ、済みませんカンザキ先生っ」ずれた眼鏡を直しながら、パイロは応えた。「それより来てください教室にっ。バリッドさんと、セインさんがっ」


パイロの案内で教室に入ったカンザキが見たものは、滅茶苦茶に荒らされた教室と、床で倒れ込む生徒達、そして羽交い締めにされているバリッドとセインの姿だった。何をしているんだ、離してやりなさい、と言いかけたところを、カンザキは押し留まった。「これって、まさか二人が?」

「遅いじゃないですかカンザキ先生、うおっバリッド暴れるんじゃない」バリッドを捕まえているのはリント・ニッシーだ。

「セインさん落ち着いて、痛い痛い脛を蹴るんじゃない」セインを捕らえているヤーン・ウッズは、脛や足の甲を蹴られる痛みに必死で耐えている。

「ヤーンの言うとおりだ。バリッド、セイン、落ち着いて」カンザキは二人の間に割って入った。「一体何があったんだね、何でここまで教室を荒らすようなことを」


発端は、昼食時間での出来事だった。バリッドと向かい合わせで食事を摂っていたセインは、手を滑らせてパンの一つを床に落としてしまった。それを直ぐに拾い、平然と口に運ぶセインを、バリッドは咎めた。

「何やってるのISO子ちゃん、落ちたものを拾って食べるなんて」

「勿体ないじゃないですか」

「勿体ないって、健康に良くないじゃないの。悪い病気がうつるかも」

「免疫が足りないからですよ、病気になるのは」

「だからって、落ちてるものを拾って食べるなんて」

「誰が『落ちてるもの』って言いましたか。床を少しかすめただけですよ、これは」

「似たようなものよ…あっ」少し身を乗り出したバリッドは、膝の上に乗せていた握り飯をスカートの裾に転がしてしまった。「ISO子ちゃんが変なこと言うから、落としてしまったじゃないの」

「あなたが勝手に盛り上がったからでしょう、って何で捨てるんですか」セインは、バリッドが裾に転がした握り飯を捨てに行くのを引き留めた。「そこまで神経質にならなくても」

「仕方ないでしょ、こういう事故だってあるんだから。それともISO子ちゃんが食べ…」とバリッドは握り飯を持った側の手を回したが、その手はセインの頬に勢いよく当たり、顔を米粒でまみれさせた。

ご免なさい、手を回したらつい。バリッドがそう言ってしまえば事態は少しは改善される筈だった。しかしそれよりも早く、セインは実力行使に出てしまっていた。「何て酷いことを…あなたが責任を持って食べなさい」セインは顔を拭った手をバリッドの顔に押しつけた。

こうなってしまっては最早収拾不可能だった。二人の争いは、壁の水彩画は破ける、盆栽や花瓶は叩き折られる、椅子や机は宙を舞う程に激しくなっていった。それをクラスのほぼ全員で押さえ込もうとしたのだが、二人は予想以上の抵抗を見せ、結果、体力のあるリントとヤーン以外は殆ど打ち倒されてしまった。結局二人を完全に押さえ込むが出来たのは、カンザキが入室する直前になってからだった。


「カンザキ先生、何とか言ってやって下さいよ」リントはカンザキに申し出た。

「状況と皆の言い分は分かった、しかし」カンザキはバリッドとセインの顔を交互に見回しながら、花瓶の破片を拾い上げた。「そう簡単に白黒を付けられる問題じゃあないな。ところで今日の掃除当番は誰だったかな?」

「ええと、あっしと、ヤーン・ウッズさんですが」パイロはズボンをたくし上げながら応えたが、その直後足を滑らせ、セインの足下に転がり落ちた。「すっ済みませんセインさん、でも何も見ていませんから。見てませんからっ」

「おおっ、まさか僕たちは休みですか?」担任の顔を見つめるヤーンには、期待の表情が浮かび上がった。

「こういう時はきっかけが必要なんだがな、仲直りするための…ミスズ先生?」入り口に人影を認めたカンザキは、その方角に向き直った。

「ここにいましたかカンザキ先生」入り口に立つミスズ・スミは、教室の様子に呆然となっていた。「それにしても酷い荒れようですね、一体誰が?」

「少なくとも一人じゃあないですな」カンザキは生徒達に目配せで、バリッド達がミスズの視界から隠す様に指示した。

「ちゃんとそういったことも監督するのも、担任の努めではないですかねえ」ミスズは教室の様子には気付かなかったが、相変わらずカンザキへの視線は冷ややかだった。「こんな調子で、中庭の掃除なんて、出来るのかしらね」

ミスズの一言と同時に、室内からは一斉にため息が上がった。「そうだった、今週の中庭掃除はうちのクラスだったんだ」リントは広く入り組んだ中庭の様子を思い出し、うんざりした表情を見せた。「やりたくないなあ、あんな魔物の住む中庭の掃除」

「魔物って、あなたが怠けて投げ出したのでしょう?」ミスズは一ヶ月前のリントの「手抜き掃除」を思い出し、呆れながら応えた「あんな中庭、二人がかりで30分もあれば片づくでしょ。もし魔物がいるとしたら、きっとそれはあなたの怠け虫よ」

「そうか、二人で30分か…」カンザキは教室の様子を改めて見回したあと、ミスズに向き直った。「分かりました。今日はホームルームで決めた生徒を中庭に向かわせます。あと部屋の掃除ですが、私も手伝いますので」

「ちゃんと頼みますよ、カンザキ先生」肩をすくめながら、ミスズは入り口から体を離した。「外国の生徒がいるので大変とは思うけれど、クラスをまとめ上げるのは担任の努めですからね」

職員室へ向かうミスズを、生徒達は入り口の陰から見送った。「真面目なのはいいんだけど、角が立ちすぎなんだなあ」「何とかして鼻をあかしてやりたいな」「カンザキ先生が頼りなさ過ぎるのよ」生徒達の反応は様々だった。

「よし、全員教室に戻って」カンザキのかけ声で、生徒達は教室に戻った。もっとも、椅子や机は完全に散らかされていたため、生徒達は山の中から自分の椅子と机を探さなければならなかった。

「先生、僕たちはいつまでこうやっていればいいんですか?」バリッドを羽交い締めにしたまま着席したリントが訊ねた。

「あとですね、さっき『ホームルームで決めた』って言いましたよね先生」パイロも眼鏡を直しながら続いた。「でも今日のホームルームでは連休中の注意しかやらなかった気が…」

カンザキは自信ありげに応えた。「そりゃあ、話すまでもなかったからね。バリッドとセインの二人いれば十分だろうし。それに、いい『きっかけ』になるだろう?」

羽交い締めのままのバリッドとセインは、互いの顔を探し合ったが、席があまりにも遠くて見つけられず、諦めて担任の側に集中した。ここに来て急に不安になったのは、セインを捕らえていたヤーンである。「ということは…やっぱり僕たちの掃除は『あり』ですか?」

「今日に限り、私も掃除を手伝うから、年末の大掃除ほどの手間はかからない筈だ。特にヤーンには苦労をかけたしね」


「全く、カンザキ先生は何を考えているのかしら」中庭の入り口の前に立ったバリッドは、その荒れ具合に呆然となった。「こんなの本当に30分で終わるのかしら」

「バリッドさん?入り口塞ぐのを止めてくれませんか」後ろからの声に思わず振り向いたバリッドは、熊手を手にしたセインと目が合った。

ご免なさいの一言で事が好転する状況だった。しかしこの日のバリッドは、「譲歩」という言葉を完全に忘れてしまっていた。「何をせっかちな…今入るところだったんです」バリッドはすぐに目をそらし、中庭へ入った。

「そんな所探しても、掃除用具はありませんよ?」セインの言葉にも、いちいち棘があった。「反対側のロッカーをお探しなさい、熊手とちり取りがある筈だから。言っておくけれど、抜け駆けは洗面所の掃除1ヶ月ですからね」

「言われなくたって」バリッドは目を合わせることなく、廊下へと戻って行った。


掃除を始めた二人は、終始無言だった。互いに声をかけあうことも、目を合わせることもなく、黙々と中庭に積まれた枯れ草を片づけていった。そんな沈黙の時間は30分程続いた。

最初に口を開いたのは、セインだった。「一体何のつもりです?」

「えっ、何が?」バリッドが振り返ると、セインが枯れ草の山をごみ箱に放り込むところが見えた。

「何がではありません、これをご覧なさい」セインはちり取りで枯れ草を指した。「私はちゃんと片づけているのに、貴方は散らかしてばかりではないですか」

「馬鹿なこと言わないで頂戴、セイン・アイゾさん」いつもなら『ISO子ちゃん』と愛称で呼ぶところを『セイン・アイゾさん』とフルネームで呼んでいたことに、バリッドは気付く余裕が無かった。「何かの間違いでしょう?」

「いいから来なさい、熊手も持って」ちり取りを持ったまま、セインは手招きした。「どうやったら掃除がうまく行くか実演してみせますから」


「この様に掃いた側から片づければ、綺麗になるでしょう?」熊手を握るバリッドの手を取りながら、セインは枯れ草をちり取りの中へ運んでいった。

馬鹿にして、そんなことぐらい言われなくたって分かるわよ。そう怒鳴り返したい気分を、バリッドは何とかして抑えた。「はあ、成る程ね」

何が『はあ成る程ね』ですか、もっとはっきりとした反応を出来ないのですか。セインも、バリッドの反応に苛立ちを感じ始めていた。「いいですか、今度はちゃんとやって下さいよ」怒りを精一杯抑えたセインの言葉に応えることなく、バリッドは持ち場へと戻っていった。


持ち場へと戻ったバリッドは、煮え切らない気分だった。「あの辺りはちゃんと私が責任を持って掃いて、ごみもごみ箱へ片づけていたのに。片づいたかどうか3回も確認していたのに。何で私が悪者扱いされなければならないの」セインのいるであろう、中庭の奥の方に顔を向けることなく、バリッドはちり取りに溜まった枯れ草をごみ箱へ投げ入れようとした。

丁度その頃、セインはバリッドの真後ろでちり取りを構え直すところだった。その直後、セインは後頭部に鈍い痛みを感じた。「痛っ、何が…」思わず振り向いたセインが見たものは、枯れ草にまみれたバリッドが、熊手を上段に構えているところだった。

「一体何のつもりよ」バリッドは自分の頭を指しながら怒鳴った。「人の頭にごみをかけるなんて、見損なったわ」

「私がそんな馬鹿なことする訳ないでしょう」セインの言葉には嘘は無かった。バリッドの側に来たのも、後ろに下がりながら掃除を続けた結果で、特にバリッドに対して何かしてやろうという意図は無かった。しかし周りの状況はセインに圧倒的に不利だった。

「馬鹿はあなたよ」周りを指差すバリッドの声が一段階大きくなった。「ここには私とあなたの二人だけ、入り口には内側から鍵、となれば答えは一つしか無いでしょう?」

セインも中庭を見回したが、それらしい人影は見えなかった。いよいよ自分が追い込まれたと気付いたセインだが、身に覚えが無いことに対して譲歩するつもりは、さらさら無かった。「他に可能性はあります、つむじ風が埃を巻き上げたとか、あるいは貴方が私を陥れるために芝居を打ったとか」

「私がそんな手間のかかることをする訳が…」一瞬空を見上げたバリッドは、その直後、腹部に激しい衝撃を受け、尻餅をついた。

息も出来ない程の苦痛が暫く続いたが、バリッドには察しが付いていた。「セイン…あなたって人は…!」服に付いた足形を払いのけながら見上げると、そこには泥を頭から被ったセインが仁王立ちしていた。

「貴方がそこまで卑劣な人間とは思いませんでした」セインはバリッドが後ろから泥をかけたものと考えていた。「そのちり取りは貴方には任せられません、寄越しなさい」

ちり取りを持つ手に掴みかかったセインを、バリッドは払いのけた。「そんな、冗談じゃない!」バリッドには、セインに2回目の不意打ちをかけた覚えは無かった。しかし、そんな弁明をする余裕の無いバリッドは、正面からちり取りでセインの頬を打った。

余裕の無いのはセインも同じだった。セインは馬乗りになってバリッドのちり取りを奪い取り、顔を連打した。バリッドも負けずにセインの後頭部を蹴り上げ、怯んだ彼女を一気にはね飛ばした。立ち上がった二人は同時に走り込んだが、枯れ草で足を滑らせたバリッドは、セインの拳を顎にまともに受け、空高く吹き飛ばされた。

「馬鹿な、牽制のつもりが…」空を見上げながら意識を失いゆく中、バリッドはそんなセインの声を聞いたような気がした。


意識の戻ったバリッドが最初に見たのは、水平に積み上がった枯れ草の山だった。「何で山が横に…」バリッドがその理由を理解するのには、暫くの時間を要した。

「そうか、あの時顎を殴られて…って、ここまでするのかセインの馬鹿は!」手足を縄らしきもので縛られた上に、横向きに転がされていたことに気付いたバリッドは、慌てて立ち上がろうとしたが、またしても枯れ草で足を滑らせ、泥だらけの地面に顔を埋もれさせた。

「花壇の中に温室用の紐が落ちていましたのでね」バリッドの声に気付いたセインは、作業を続けながら応えた。「口を塞がれなかっただけでも有り難く思いなさい」

「自分のことを棚に上げて、何て馬鹿なことを…」やっと体を起こし、正座の体勢になったバリッドは、セインの強引なやり方に呆れ返った。

「確かに私は馬鹿でしたよ、初めから貴方を締め上げ、私一人で掃除を済ませればよかったのですから」

「そんな権利があなたにある訳とでも思っているの?」

「権利ではなく、義務として行ったまでです。掃除を終わらせる義務を果たすためにはこれぐらいの事は」

冗談じゃない。こんな理不尽な理由で洗面所掃除1ヶ月を押しつけられてたまるものか。何とかして手足の自由を得て、自分の潔白を証明しなければ。バリッドは近くに転がり落ちていた小石を、後ろ手で拾い上げた。

「よし、これで手首の紐を切れば…」直後、中庭にバリッドの悲鳴が響き渡った。「痛い痛い痛い痛い、手の平が、手の平が攣って…!」

突然の悲鳴にもセインは振り返ることなく、掃除を続けていた。「何を馬鹿みたいに大声張り上げているのです、そこまでして掃除の邪魔をするなら…」

「あなたが勝手に人を縛り上げたからよ、物事を確かめずに」バリッドは、引きつり続ける手の平を地面で揉みながら反論した。「今日のことは全部カンザキ先生に知らせてやるから。『セインが私を殴って気絶させた上に紐で縛り上げた』って」

「何とでもおっしゃいなさい、『バリッドが掃除の妨害ばかりするので、やむなく防衛手段をとった』と報告すれば…」ちり取りの中の枯れ草をごみ箱に投げ込むセインは、相変わらずバリッドの側を向こうとはしなかった。「さてと、一通り片づいたから、私は失礼しますよ」


出口へ向かうセインの姿を見たバリッドは、最悪の事態を想像して青くなった。セインは私を放置して帰るつもりなんだ。手足を縛られて、身動き出来ない状態で。少なくとも連休の3日間ずっと中庭から出ることは出来ない。今の時期、気温の変化も結構大きいし、もし大雨が降れば、庇も何も無いところで、雨をまともに浴び続けることになる。一番の心配は空腹だ。昼食でのトラブルのせいで、今日は殆ど何も食べていない。最悪ここで餓死してしまうかも知れない。連休明け、クラスメイト達が自分の餓死体を取り囲むところを想像した直後、バリッドは、出口の方角からの声を聞いた。「どうしたことでしょう、ドアが開きません」

「ドアって、私は何も細工してないわよ」

「そんな分かり切ったこと…って貴方何を…」やっとバリッドの側を向いたセインは、手にしていた熊手を落としたが、それを拾うこともなく、呆然と立ちつくしていた。

だから私は何も、と言いかけたバリッドは、体を捻って自分の後ろを覗き込んだ。セインの視線が自分ではなく、その後ろに向いていることに気付いたからだった。

「これって、何時の間に…」バリッドが見たものは、二階の窓まで積み上がった枯れ草の山だった。


「そうでした、すっかり失念していました」『ほーむぺーじ』のことを、と言いかけたセインの目が急に見開かれた。バリッドの背後の枯れ草の山が急に自分に向けて飛びかかって来たからだった。セインはドアを開けるのを諦め、枯れ草から逃げることを優先した。

飛びかかる枯れ草を3回ほど避けたセインは、大きな石を拾い上げた。「開けるのが駄目なら!」セインは石を窓ガラスに向けて投げつけたが、粉々になったのは窓ガラスではなく、石の方だった。

「中庭全体を乗っ取ったのか、『ほーむぺーじ』は…」その様子を見ていたバリッドは、相変わらず紐と格闘していた。「でも、ここで『マークアップ』したら、私の正体が知れ渡っちゃう…」

バリッドが思い悩んでいる間に、『ほーむぺーじ』は新たな行動に出た。枯れ草の固まりは細長い筒型になり、周りのものを吸い込みはじめたのだった。「こんなところに竜巻を…」声が出るより早く、セインの周りの風景が回転を始めた。『竜巻』に巻き込まれたことに気付いた時には、セインの体は空高く舞上げられてしまっていた。

枯れ草や泥水にまみれながら、セインは必死でバリッドの居場所を探そうとした。「バリッド、逃げて…」泥水を吸い込み、むせかえりながら声を絞り出したセインだが、その直後、自分がバリッドの手足を縛ったことを思い出してしまった。

「そうだった、手足を縛られては逃げようがないのだった…」意地を張りすぎた。泥を掛けられた時も、確かめもせずにバリッドの仕業と決めつけ、あまつさえ彼女を縄で縛り上げてしまった。もう少し早く気付いていれば、バリッドを『ほーむぺーじ』の脅威に巻き込むことは無かった。セインは『竜巻』の中で顔を真青に染めていた。

青くなっていたのはバリッドも同じだった。その場の感情に任せてしまったせいで、正しい判断が出来なかった。もっと早く気付いていれば、セインを『ほーむぺーじ』から守ることが出来たのに。後悔の念にかられた直後、バリッドの脚が地面から離れた。力を増した『竜巻』がバリッドを吸い上げ始めたからだった。

バリッドも渦中に巻き込まれたことを知る術は、セインには無かった。泥水と枯れ草の中でかき回され続けたセインの体は、既に限界に達していたのだった。「このままでは、『竜巻』の力で、体を引きちぎられてしまう…」最悪の事態を想像しながらも、枯れ草をよけるべく必死で抵抗を続けていたセインは、急にその手を止めた。

「おかしい、『竜巻』の中、こんな手を軽く動かせる筈が…」セインは不意に辺りを見回した。激しい『竜巻』の中、本来辺りを見回す余裕など無い、と気付いたのはその直後だった。

「『竜巻』が、弱まってゆく?」セインが見たものは、勢力を保ちながらも目の前から離れてゆく枯れ草の群だった。セインの周りに出来た空間は次第に広がり、やがて自分の身長の2倍はある球状の空間となった。


その光景はセインの理解を大きく超えていたが、それ以上に大きな衝撃が彼女に訪れた。後ろを振り向いたとき、赤いV字型の『角』を生やし、青白い光を発する少女と目が合ったからだった。

「バリッド…貴方、一体何を…」

「セイン…さん?」その少女はセインよりも大きく動揺している様に見えた。「そんな、よりによってこんな時に…」

「やっぱり、バリッドなのですね」セインはその少女、バリッドに向けて静かに話しかけた。「その手足の紐、確かに私が縛ったものです」

「そうだった、『竜巻』に巻き込まれた時に咄嗟に…」セインと空中で向き合ったバリッドの顔には、絶望の表情が浮かび上がっていた。「この姿は誰にも見られてはいけないものなのに…」

「『この姿』って、まさか、あの時…」セインは先日の『ほーむぺーじ』の来襲を思い出した。『ほーむぺーじ』が教室に現れ、校庭へ避難した時も、バリッドだけそこにいなかった。彼女が戻ってきたのは、『ほーむぺーじ』が姿を消した後だった。「あの時は、単に廊下で迷っただけだと思っていました。本当は『ほーむぺーじ』を消す為に」

「隠していたのよ。私にそんな能力があるなんて知れ渡ったら、間違いなく街が混乱に陥るから」

バリッドの言うことももっともだと、セインは思った。只でさえ『ほーむぺーじ』と呼ばれる得体の知れない存在で街が不安に陥っている時に、海外から来た少女が、また未知の力を発揮するとなれば、更なる混乱を起こるであろうことは、セインにも容易に想像が出来た。最悪、『ほーむぺーじ』を扇動する存在として、『魔女狩り』の様な目に遭うかも知れない。「でも、私は…」セインはその先の言葉を繋げられず、二人の間に長い沈黙が訪れた。

「一緒に、帰ろう?」先に口を開いたのはバリッドの方だった。「今から始めれば、日が沈む前には終わるから」

「本当に」もう妨害はしないでしょうね、と続けそうになるところを、セインは寸前で止めた。「本当に大丈夫なのですか、こんな大きな『ほーむぺーじ』相手に」

「分からないけれど…」V字型の『角』が真赤に輝き、堅く縛られていた手足の紐が、逆回しのフィルムの様にほどけていった。手足の自由を得たバリッドは、セインの肩を強く抱きしめた。「一緒に帰るって、約束したから…!」


その直後、二人の周りの空間は一気に広がり、『竜巻』を拡散させた。中空に浮かんでいた二人はゆっくりと中庭に降り立った。

「『竜巻』が、逃げてゆく?」中庭を見回したセインは、拡散した『竜巻』が再び集まり、校庭の方角へ飛び去ろうとするのを見つけた。

「逃がしはしない!」バリッドの靴が青白く光り、地面を強く蹴った。一瞬のうちにバリッドは二階の屋根まで飛び上がり、『竜巻』の進路の前に立ちはだかった。

60度以上はある急な屋根の上でも、バリッドはよろめく様子を全く見せなかった。それを見た『竜巻』は、屋根ごとバリッドを吸い込もうとしたが、バリッドの手によって止められ、のたうち回った。

「あとはこのまま、『マークアップ』!」バリッドの手から、金色のV字形の光の固まりが『竜巻』の中に撃ち込まれた。光の固まりは『竜巻』の中で増殖し、2秒後には、『竜巻』の中と、中庭全体を埋め尽くした。屋根から飛び降りたバリッドは、中庭に張り付いている金色の薄膜を引き剥がし、金色に光ったまま動かない『竜巻』の中に投げ込んだ。

「『ウェブサイト』よ、空へ!」金色の固まりを抱え上げたバリッドは、かけ声と共にそれを空へ向けて放り投げた。金色の固まりは天頂へ向けて飛び去ったかに見えたが、鈴のような音と共に四散し、夕焼け空の一番星となって消えた。その様子を見届けたバリッドからも光は拡散し、額の赤い角も蝋燭の火の様に消え去った。


セインは中庭の入り口で、その一部始終を呆然と眺めていた。「これが、『マークアップ』…」セインの目はバリッドの方を向き直ったが、その焦点は曖昧で、何も目に入らない様子だった。

暫く経って、何かが目の前を遮るのに気付いて、やっとセインは我に返った。「これって、熊手…?」

「大丈夫?怪我は無い?」セインの気付かない間に、バリッドは散らかった熊手やちり取りを取り戻しに来ていたのだった。「動けないのなら、休んでいていいわよ?私一人で何とか」

「それは私が言うべきことでしょう?」セインはバリッドの手から熊手を一本取り上げた。「一人であんな大仕事をさせておいて、私一人が休んでいるなんて、出来るわけが…」その直後、セインは石畳から滑り落ち、芝生の上に座り込んでしまった。

「大丈夫?ISO子ちゃん」久々にセインを「ISO子ちゃん」と呼んだ気になったバリッドは急に吹き出し、そのまま笑いが止まらなくなった。

「大丈夫って、脚が攣ったぐらいでそんな笑わなくても」靴を脱いで足の裏を揉みながら、セインも笑い始めた。自分への呼び名一つで吹き出してしまったバリッドが、たまらなく可笑しく見えたからだった。二人の笑い声は、一番星の見え始めた空まで響いていった。


「ただいまぁ」フラットに帰って来たバリッドは、玄関のマットで靴の泥を拭いながら扉を閉じた。

「お帰り…って、どうしたのそんな泥だらけになって!」バリッドの姿を見たフラット管理人、キネコ=シーは慌てて洗い場から濡れた布巾を持ち出した。「もう泥んこ遊びをする年じゃないと思っていたのに」

「今日は学校の中庭の掃除だったのよ」キネコに顔や手を拭かれながら、バリッドは応えた。

「そんな泥だらけにならないと出来ないことなの?庭掃除って」

「今日は意外と大仕事でね、溜まった枯れ草やごみを外へ持ち出していたら、夕方になっちゃって」

「一人でやったの?」

「二人よ。ISO子ちゃんと、私とで」手と顔を拭ってもらったバリッドはスリッパに履き替え、ダイニングへ向かった。

「ちょっと、食べる前に着替えて、お風呂に入ってらっしゃい」キネコは、テーブルの上の握り飯をつまみ食いしようとするバリッドを咎めた。「ほら言わんこっちゃ無い、泥汚れを気にするから…って、ええっ?」キネコが見たのは、テーブルクロスの上に転がり落ちた握り飯をバリッドが拾い上げ、口に運ぼうとするところだった。

「そんな、おにぎり食べるぐらいで驚くなんて」キネコの声に、バリッドは思わず振り向いた。「今日はお腹が空きすぎているから、お風呂に入る前に一口ぐらい食べないと」

「食べずに捨てると思っていたからよ、いつもならティーカップに落ちたご飯すら食べずに捨てるのに」

「免疫を付けるためよ」バリッドは手にした握り飯を、一口頬張った。


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作:Nishino Tatami (ainosato@vc-net.ne.jp)