バリッドちゃんエピソード#7: 箇条書き太郎を救え

( published: Mar. 20, 2004 / completed: Jul. 17, 2004 / fixed: Jul. 20, 2004 )


「昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました」ヤンチ川上流へ向けて進む八足バスの中、バリッド・バリッドは突然暗誦を始めた。「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました…」

「その話、よく知っていますね」バリッドの横に座るセイン・アイゾが、茣蓙を結わえる紐を直しながら訊ねた。

「ええ、これでもJISタウンについては色々予習したのよ」

「確かその後、おばあさんが柿を拾うんだっけ?」話しに割り込んだのは、バリッドの後ろに座るミクスだった。

「柿ではなくて桃よ」ヤンチ川に並ぶ水車小屋を眺めながら、バリッドは応えた。「川から流れてきた桃を持ち帰って、切ってみたら小さな男の子が出てきて」

「そして付けた名前が『桃太郎』…っと」バリッドがバスのフレームから身を乗り出しかけているのに気付いたセインは、バリッドのタイツを引張って注意をひいた。「バリッド、あまり顔を出しすぎると危ないですよ」

「そうだった、窓が無いのでつい」体を戻したバリッドは、幌で被われた天井に視線を向けた。


やがてバスは川沿いの太い道を離れ、階段状の土手へと降り立った。土手は殆ど壁といって良い程鋭く切り立っていたが、バスの脚は器用に高さを合わせ、車内の水平を保ち続けていた。

「こ、これ、バスの路線よね」フレームに掴まったバリッドは、少しずつ視点の低くなる風景を呆然と眺めていた。

「これでもバスが通れる様に改修したのですよ」屈み込んだセインは、靴のベルトを直しながら応えた。「以前は普通に切り立った土手だったのですが、階段状にして、滑りにくくして」

バスのスピーカーが運転手の声を響かせたのは、その直後だった。

「間もなく終点『サンポン家入口』です、お降りの際は皆様お忘れ物の無い様お気をつけ下さい」

「凄い、本当に『サンポン家入口』と言うのね」バリッドは、川のすぐ側まで迫る山の麓に、大きなログハウスを見出した。「あれがフーミ・サンポンさんの家かしら」

「フーミの実家は、鉱山をやっているからね」ミクスは椅子の上に膝立ちになり、バリッドの側に身を乗り出した。「あの山の奥で、ぜんまいの原料を掘って…おおっ!」

ミクスの言葉を遮る様に、車内はやや大きく揺れ動いた。土手を降りきり、川原に辿り着いたことを示す合図だった。

「そろそろ着きますよ、持ち物を確かめて」セインはバリッド達に呼びかけながら、川原の小さな水車小屋に目を向けた。「フーミさんは…ここからは見えませんね」


それから間もなく、バスは水車小屋の側で脚を止めた。バリッド達は荷物を抱えて、車両から河原へと降り立った。

「この水車小屋、バスの待合所も兼ねているのね」バリッドが背筋を伸ばす後ろでは、運転手が水車小屋とバスとを太いワイヤーで繋ぐ作業を始めていた。「そうか、ああやってぜんまいを巻くのね」

「昔は車のネジを直接水車小屋に繋げないといけなかったんだけどね…っと」応えるミクスの横では運転手が小屋のレバーをゆっくりと上げ始めていた。レバーの動きに合わせるように、ワイヤーはゆっくりと回転し、バスに小さな振動を与えた。ミクスの顔に巨木のような影が被ったのは、その直後だった。

「いやぁ、ちょっと早く来過ぎてしまって」影の主は、セインに手を引かれながら眠そうに目を擦るフーミ・サンポンだった。「いい天気だからついベンチで眠ってしまって」

「丁度今来たところなのですよ」フーミの手の平を揉みながら、セインはバリッドとミクスに向けて茣蓙を振った。

「それにしても、皆可愛い服が似合っていいわね」フーミは軽く欠伸をしながら、バリッド達のワンピースやドレスを眺めた。

「そういう時こそ、父ちゃんの出番なんだけどな」

「私はミクスと違って、この体だからねぇ」自分の身を包む褐色のジャンパースカートを見下ろしながら、フーミはもう一度欠伸をした。「そんなふんわりしたドレス、私には似合わないだろうしねぇ」

「服のことはまたあとで考えましょうよ、フーミさん」茣蓙を地面に降ろしたセインは、フーミを見上げながら、川の側に向けて手を伸ばした。「それより座る場所を決めません?ここでずっと立ち話というのも何ですし」


河原に平たい岩場を見付けたバリッド達は、そこに茣蓙を敷き、荷物を広げた。

「さぁて、母ちゃんは何を作ったのかな?」小さく舌なめずりをしたミクスは、包み紙代わりの新聞紙を丁寧に開いていった。「って母ちゃん、よりによってこれ使ったの?」

ミクスの弁当を包んでいたのは、バリッドのホリゾンタ・ルルーとの共演を一面に取り上げた日のものだった。セインはそれを取り上げ、丁寧に皺を伸ばしていった。

「きっとバリッドを喜ばせるためにやったのですよ」

「そ、そうかしら…?」紙面の中の自分と目の合ったバリッドは、思わず緩んだ頬を押さえた。「あ、改めて見ると、意外といい映りかも…」

「ホリゾンタさんの方?」バリッドを横目で見ながら、フーミは鍋からスープをカップへとよそっていった。「あ、これ私の作ったものなんだけど」

「フーミさんの作ったスープ?」バリッドはフーミから受け取ったカップに浮かぶキャベツや人参を暫く眺めた後、スープを一口すすってみた。「美味しい!スパイスの香りといい野菜の甘さといい、最高ではないですか!」

「セインさんも来るっていうから、辛くしなかったんだけど」

「酸っぱいのなら幾らでも食べられるのですけれどね」バスケットから黒パンとピクルスを取り出しながら応えるセインは、ふと川岸で釣りをしている3人の少年達に視線を向けた。「あれはタケックさんのプレスクールの子達かしら」


それから間もなく、少年達はバリッド達の姿に気付いた。3人は暫く話し合った後、バリッド達の前に駆け寄った。

「こんにちは、セインさん」銀髪の少年が、ベレー帽を脱ぎながら、軽く礼をした。「この前のトマト、皆喜んでいましたよ」

「ISO子ちゃんの知り合いなの?あの子達は」お揃いの服に身を包んだ3人を横目で見ながら、バリッドはセインに訊ねた。

「タケックさんが経営しているプレスクールの子なのですよ」応えるセインは、紺色のタイツに包まれた少年達の脚を眺めていた。「以前畑の手入れを手伝ってもらったことがあって、それ以来プレスクールの子達と仲良くなって」

「ところでそちらの方」黒髪の少年が、Yシャツの衿に巻かれたスカーフを捻りながら、バリッドの側に視線を向けた。「この前ホリゾンタ・ルルーさんと共演した、バリッド・バリッドさんではありませんか?」

「いえ、あの、その、私は…」

「そんな恥ずかしがらないの、バリッド」はっきりしない受け答えをするバリッドの肩を、ミクスは大げさに叩いてみせた。「ほら、この新聞と同じ顔でしょう?」

「おお、本当だ」ミクスから新聞を受け取った赤毛の少年は、目の前のバリッドと並べるように紙面を広げた。「そうだ、サイン貰えませんか?バリッドさん」

「ちょ、ちょっと落ち着いて、私はペンを」

「ペンならあるわよ?」フーミはスカートのポケットからペンを取りだし、バリッドに手渡した。

「て、でも、書くところが無いでしょう?」ペンを受け取ったバリッドの顔は、見る間に動揺の汗を溢れかえらせていった。

「いえ、シャツの背中があります」銀髪の少年がサスペンダーを降ろし、バリッドに背中を差し向けた。「ヤンとチップはどうする?」

「じゃあ僕は胸に」「私はスカーフにお願いします」ヤン、チップと呼ばれた残りの2人もサスペンダーやスカーフを外し、サインを受ける体勢を整えた。

「ほ、本当にいいの?直に書いてしまって」少年達の胸や背中を前に、バリッドは耳まで真赤に染めあげていた。「全く、皆して面白がって…んっ?」


ペンのキャップを外したバリッドは急に立ち上がり、ペン先で川上を差した。

「あれ、何だと思います?」ペンの先では、細長く白い軽石の様な物体が、川下に向けて流れ去ろうとしていた。

「軽石の様にも見えますが…」バリッドに続いて立ち上がったセインは、靴を直しながら川岸の方へと降り立った。「少なくとも『桃太郎』の桃には見えませんね、っと」

「まさかセイン、川に入って拾おうなんて考えてるんじゃないよね?」膝立ちになったミクスは、セインの様子を不安そうに眺めていた。

「いえ、川に入るまでもなさそうですよ」セインの言う通り、軽石は川の中の岩に何度も弾かれ、やがて砂浜の流木の様に川岸へと転がり込んだ。「ちょっと近付いて見てみませんか?」

「いえ、私はちょっと…」座ったまま少しずつ身を引こうとしたフーミだが、バリッドもミクスも川に降りて行くのを見ると、次第に心細くなっていった。「や、やっぱり行くわ…」


川岸に降り立ったバリッド達は、軽石から少し離れた場所から様子を眺めていた。

「こんな大きな軽石が流れてくるということは…」川の側に屈んだバリッドは、川の流れに指を通しながら、軽石を見まわした。「この辺りには火山か何かがあるのかしら?」

「100年ほど前に、この辺りで大きな地震があったそうです」応えたのは先の銀髪の少年だった。「もしかしたらその影響かも知れませんね」

「それよりグレイ」縮れた赤毛を指で引き伸ばしながら、チップは銀髪の少年の肩から指を差した。「あれ、人の形に見えないか?丸い頭に細い手足と」

「溶岩が木の根の中に入りこんで、人の形のように固まったという話なら、聞いたことがあるのですが」

「たまたまそうなっただけでしょ?」セインの説明に、ミクスが割り込んだ。「それに木の根だったら、こんな仰向けに寝たような形にはならないよ」

「ちょっと待って」バリッドは四つん這いのまま軽石に近付き、足の裏の様に見える平たい部分に顔を近づけた。「『足の裏』に何か書かれているわ」

「そんな馬鹿な、また何かの見間違え…」グレイとチップの脇を抜けたヤンは、軽石の側に寄り、バリッドの隣に屈み込んだ。「いやちょっと待てちょっと待て、ええっと」

「嫌らしいなお前は、そこまでしてバリッドさんに近付きたいのか?」

「違うんだチップ、どうやら表面全体に文字みたいなものが彫られているみたいなんだ」

「ということは、誰かが作ったものってことかしらねぇ」ミクスの後ろから身を乗り出しながら、フーミは軽石を覗き込んだ。


バリッド達は、軽石をよく調べるために、茣蓙のある岩場まで運ぶことにした。話し合いの結果、セインが『頭』を、フーミが『踵』を持ち上げ、残りは『脇腹』を支えるという方向で意見が纏まった。

「ふうっ、結構重いわねぇ」『踵』を支えるフーミは、数歩も進まないうちに汗を流し始めていた。

「それより大切に扱って下さいよ」一方のセインは、前後を交互に見回しながら軽々と『頭』を担いでいた。「落としたら粉々になるのは確実なのだから」

「ええ、気をつけるわ」ミクスの隣で『脇腹』を支えるバリッドは、急に胸の鼓動が早くなるのを感じた。表面に書かれた文字に見覚えがあったからだった。

(この文字、もしかして『ハトマル文字』ではないかしら?ということは…)

「バリッド!そこ段差あるから気をつけて!」

「あ、はい…!」セインの呼び声で我に返ったバリッドは、足元に視線を移し、ゆっくりと段差を乗り越えた。


茣蓙まで戻り、セイン達が食事を再開する一方、バリッドは一人軽石の表面を調べていた。

「バリッドさん?調べるのは後にして、先にお昼にしたら?」

「ちょっと待ってフーミさん」バリッドはナプキンで手を拭きながら、表面に彫られた文字を指でなぞっていた。「この『文字』、見覚えがあるのよ」

「只の模様じゃないの?」訊ねるミクスは、グレイと共におにぎりを分け合っていた。「梅干かぁ…」

「以前歴史の勉強をしたことがあって、その時に超古代史のことも」

「一万年ほど昔に、今より高度な文明があったとかいう話ですよね」ベーコンと玉葱を黒パンの上に載せながら、セインはバリッドの側に寄った。「でもそれって、高々数百年ほど前の創作ではなかったのですか?」

「史実ならとっくの昔に立証されても、おかしくはないのでしょうけどね…ありがと」パンを左手で受け取ったバリッドは、右手で文字を探り続けていた。「読めたわ!《一つ、私は『ウェブ』を守るために存在する、一つ、私は…》」

「ほ、本当に読んだ…!」急に解読を始めたバリッドに、チップは思わず目を見開いた。「しかし何でいちいち文章の頭に『一つ』を付けるんだ?」

「箇条書きになっているのよ、一つ一つの文章が」バリッドは足を組替えながら、チップの側へ振り向いた。「って、話に応えたらどこまで読んだか、分からなくなってしまったわ」

「ご、ごめん…」チップは申し訳なさそうに帽子を脱ぎ、キャベツの根に手を伸ばした。


バリッドはセインからスープや寿司を受け取りながら、解読を続けていた。

「…っと、やっと最後の部分まで来たわ」軽石の『肩』を軽く持ち上げながら、バリッドは最後の文字の解読に入った。「《一つ、私の股に触れてはならない、一つ、さもなくば私は『ほーむぺーじ』となり、全てを水に沈める》…だそうよ」

「それ、本当だったら凄い大発見ではありませんか?」バリッドの隣で解読の様子を眺めていたヤンは、軽石の『手』を撫でながら頷いた。「一万年以上も昔に、今よりも高度な文明があったことの証明になりますよ」

「そうとも限らないんじゃないかしら?」バリッドとヤンとの間に割り込むように、フーミが軽石を覗き込んだ。「古代史文学の影響を受けた芸術家が、石を切り出して文字を彫りこんだのかも知れないし」

「夢が無いんだな、フーミ姉さんは…っとおっ!」フーミの向かいにいたチップは、軽石の『股間』に手を伸ばそうとしたところを、セインにサスペンダーを掴まれ、軽石から引き離された。

「駄目ですよヤン、解読文には従わないと」

「でも只の芸術作品かも知れないんでしょ?」

「それなら尚更ですよ」岩肌の上で仰向けにされたヤンに覆い被さるように、セインは四つん這いで屈み込んだ。「鑑賞するにしても、芸術家の意図を汲み取った上で…」

ミクスの悲鳴が河原に鳴り響いたのは、その直後だった。ミクスの視線の先には、黄色い覆面に白衣の男が、双眼鏡を片手に川の辺りを見回していた。

「ミクス?何を大げさに怯えてるの?」自分の背後に逃げ込むミクスの額を、フーミは軽く撫で回した。

「あの人理不尽に怒鳴ってばかりなのよ…ってセイン!」ふと振り向いたミクスが見たものは、膝立ちになって覆面の男に手を振るセインの姿だった。

「そこの方、『ほーむぺーじ』の専門家の『バカ・トホ』さんではありませんか?」セインはゆっくりと立ち上がりながら、男に呼びかけていた。「河原で発掘された石像について、専門家としての意見を聞きたいのですが…」


セインの姿に気付いた男は、いかにも面倒そうに、ピクニック中の茣蓙へと駆け寄った。

「何だ貴様らは?人が資金調達の為に働いているというときに…」

男の不機嫌そうな言葉に、ミクスはほらね、とばかりにしかめた顔をグレイ達に見せた。

「それに我輩は『バカトホ』ではない、『パッハー・トホ』だ」双眼鏡をポケットにしまいながら、パッハー・トホは続けた。「それが嫌だから、『ドクター・トホ』と呼べと」

「それよりトホさん、覆面を降ろして下さいませんか?」膝立ちのまま振り向いたバリッドは、指で覆面を降ろす仕草をしてみせた。「顔が見えないのは恐いという人も多いでしょうし」

何を言うか、と怒鳴りかけたところで、トホは怯えるミクスと、呆然としているグレイ達に気付いた。

「よ、よかろう」トホは渋々と覆面の下半分を降ろし、素顔を見せた。「で、石像というのは、それか?」

「ええ、トホさんなら本物の遺跡なのか、それとも最近作られた芸術作品なのか分かると…」

「落ち着け、留学生!」自分が期待されていることに気付いたトホは、軽く咳払いをしながら、軽石の前に膝を下ろした。


トホはいらいらと眼鏡のずれを直しながら、軽石の表面を調べ始めた。

「何だこの表面の模様は?」

「文字だそうですよ、バリッドさんによると」

「貴様には聞いておらん!」グレイを一瞬鋭く睨み付けた後、トホは軽石に戻った。「で、何と書いてあったのだ?留学生?」

「もともとこれは大昔に空を守っていた戦士で、それが封印されて石のようになった、という話が書かれていたのよ」

「なら、答えは簡単だ」腰を上げたトホは、威圧するかの様にバリッドを見下ろした。「どこかの芸術家気取りのペテン師が、面白がって川上から流したのだ」

「トホさんもそう思いますか…」フーミは鍋の底にたまった人参や鶏肉をお玉でかき集め、カップの中に盛った。「あの、これよろしければどうぞ?少しぬるくなってしまいましたが」

「馬鹿が、子供の作った飯が食えるものか…」カップに背を向けたまま応えるトホだが、突如唸り出した腹の虫を抱えては、黙っている訳にはいかなかった。「…一杯分しか無いのか?」


スープを飲み干したトホは、カップを茣蓙に置いた後、再び軽石に向き直った。

「あの、美味しかったですか?」トホの背中を見下ろしながら、フーミはおずおずと訊ねた。「美味しくないなら次回の参考にするのですがね」

「何をごちゃごちゃ言っているか」フーミに背を向けたまま、トホは面倒臭そうに応えた。「で、貴様らはどうするのだ?この石ころを」

「川の上流を調べるのが良いと思いますよ」トホに応えたのは、脚を組替えるセインだった。「遺跡にしろ、芸術作品にしろ、川の奥に何かあるのは間違い無いのですから」

「遺跡だと?馬鹿馬鹿しい」振り向いたトホは、軽石に手をかけながら反論した。「大体そんな遺跡があるなら、数百年も昔のうちに…何だ?」

グレイ達の悲鳴を背後から浴びたトホは、慌てて軽石に向き戻った。

「何だ貴様ら?我輩を挑発するつもりか?」

「違う違う!その手!その手!」叫ぶチップは、軽石にかけられたトホの手を指差していた。トホの手が、軽石のまさに『股間』にかけられていたからだった。

「何を騒いでいる!石に手をかけたぐらいで…」チップに向けて身を乗り出した直後、トホは急に脚に水の冷たさを感じた。「誰だ!我輩の足元に水をかける馬鹿者は!」

「石像に書かれていた通りだわ…!」トホの足元が水に浸りつつあるのに気付いたバリッドは、膝立ちのまま後ずさりした。「股に触れたら『ほーむぺーじ』になって水浸しにするって…」

「留学生が何を喚いて…うおっ!」バリッドの方へ振り向いたトホが見たものは、真下から突如噴き出た水流で茣蓙を吹き飛ばされ、引繰り返るバリッド達の姿だった。「こんな所に地下水脈があるなど、聞いたことが無いぞ!」

「だっ大丈夫ですかバリッドさん…うわっ!」慌ててバリッド達に駆け寄ったヤンだが、背後で何かが砕ける音を聞き、思わず足を止めた。「カップが真後ろに落ちたのか…」

「ヤン!まだ来るぞ!」頭を押さえながら駆け寄るグレイとチップの横や背後にも、カップや鍋が次々と落下していった。


何とか立ち直ったバリッド達は、互いの無事を確かめあいながら、一箇所に集まった。

「バリッド、ミクス、フーミさん!大丈夫ですか?」

「一応、皆怪我は無いみたいだけど」セインの許に集まったミクスは、グレイ達の肩に隠れながら、呆然と水柱を見上げていた。「やっぱりこれも、石に書いてあった通り?」

「たまたまでしょ、岩を突き破って地下水が噴き出すなんてよくあること…」ミクスの肩を抱くフーミは、水柱の奥でうつ伏せに倒れているトホに気付いた。「ってトホさんが倒れているわ!」

「でも様子が変だ」「バスケットを被っているぞ」「頭に当たって気絶したんだ」トホの様子をあれこれ話し合いはじめたグレイ達を、バリッドが遮った。

「ちょっと待って、私が助けてに行くから…わあっ!」バスケットを被ったまま気絶したトホに駆け寄ろうとしたまさにその時、バリッドの頭に、先に飛ばされた茣蓙が覆い被さった。思わぬ形で視界を失ったバリッドは大きくよろけ、水流にまともに飛びこんでしまった。


水柱に飛びこんだバリッドは茣蓙を被ったまま水流に打ち上げられ、上空に釘付けにされた。

「ま、まさか水柱に打ち上げられた?」茣蓙の上でトランポリンの様に跳ね上げられながら、バリッドは体勢を取り直し、辺りの様子を確かめた。「た、高い!こんな所から落とされたら…!」

「ど、どうしよう!バリッドが!」頬を押さえながらバリッドを見上げるミクスは、後ろのフーミが急に走り去るのに気付いた。「フーミ!何処行くの!」

「家からマットを取ってくるのよ」フーミは屋敷に繋がる橋に向かっていた。「3分だけ時間を頂戴」

「そんな!3分持ってくれるかどうか分からないっていうのに!」

「おいおい、僕らがいるってのを忘れないで欲しいな」振り向いたチップがミクスの肩に手をかけたが、ミクスの憮然とした表情に慌てて手を戻した。

「それよりトホさんです」ミクス達の前に出たセインは、水柱の奥で未だ動く気配のないトホを指差した。「このままでは頭に水が漬かって、溺れてしまいます」

「そ、そうだった」我に返ったミクスは、顔を押さえながらトホの頭に視線を向けた。「でも助けている途中でバリッドが落ちてきたら?」

「その時はアドリブです、さあ早く!」言うよりも早く、セインはトホのいる方に向けて駆け出していた。その姿を見たミクス達も、後に続いた。


セイン達がトホと軽石を抱きかかえようとしたその時だった。

「水位が…上がっている?」

「セインさんどう…うわっ!」グレイが見たものは、川岸を埋め尽くし、河原や橋まで迫る川の水面だった。「こんな時期に雪解け水…?」

「皆逃げて!その石は…」茣蓙の上でバリッドが叫んだ直後、軽石がセイン達の足元を離れ、蛇の様にのた打ち回りはじめた。やがて軽石は大きさを増しながら竜巻の様な螺旋となり、水位を増した川へと飛びこんだ。

「まさか、『ほーむぺーじ』…だあっ!」チップが気付いた時には、『ほーむぺーじ』と化した軽石は大量の川の水を津波に変え、河原に押し流しはじめていた。津波はセイン達だけでなく、水柱の上のバリッドをも飲みこみ、川の中心へと引き摺りこんでいった。

「ISO子ちゃん!ミクス!皆…っつうっ!」荒れ狂う水面から顔を出したバリッドは、丸まった茣蓙にしがみつきながら、周りの様子を確かめた。「フーミさん家の橋!ここなら…!」

バリッドは茣蓙から手を離し、『ほーむぺーじ』の生み出した渦巻きの中心へと飛びこんだ。直後、バリッドの周りに金色に輝く球状の空間が現れ、渦巻く水流から身を守った。

「早く皆を助け出さないと…いた!」水流の中を進むバリッドは、渦に飲みこまれて身動きの取れないセイン達を見つけ出した。「ISO子ちゃん!ミクス!今助けるわよ!」

バリッドはセインとミクスを光の空間に取り込み、重なる様に背負った。プレスクールの少年達も同じ様に助け出し、両手に抱きかかえていった。

「あとはトホさんだけれど…」背中に3人、両手に2人抱えたバリッドは、光の空間が狭まりつつあるのに気付いた。「一旦橋に戻らないと…」


5人を橋まで運び、寝かせたところで、バリッドは屋敷から出るフーミを見つけ出した。

「フーミさん!早く!早く!」水位の急激な上昇に驚くフーミに向けて、バリッドは手を振りながら叫んだ。バリッドに気付いたフーミは、肩のマットやクッションを重そうに抱えながら駆け寄った。

「バリッドさん!無事だったのね!」マットを地面に降ろしたフーミは、橋の上に寝転がされているセイン達の姿に気付いた。「って今度はセインさんが…!」

「急に水かさが増して、溺れてしまったのよ」フーミから受け取ったシーツでグレイの体を包みながら、バリッドは応えた。「お陰で私は助かったのだけれど」

「水を飲んだりとか、してない?」

「応急手当をしたから、大丈夫だと思うけれど…」プレスクールの少年達をマットまで運び終えたバリッドは、続いてミクスに取りかかった。「それよりトホさんよ、トホさんだけ助け出せなくて…」

「トホさんが、いない…?」セインを抱きかかえようとしたフーミは、慌てて橋の周りを見まわした。「ということは、もうとっくに下まで流されて…!」

「いえ、そうでもないみたいよ」ミクスを毛布で被いながら、バリッドは橋のすぐ側まで迫る渦の中心を指差した。「あの渦の中に捕らえられて、身動きが取れなくなっているのよ」

「それならいい方法があるわ、家にロープと浮き輪があるから、それでトホさんを捕まえれば…」

「でも、トホさんが起きているとは限らないでしょう?」

「そうか、自力で捕まえられなければ意味が無いか…」フーミがやっとの思いでセインを抱き上げたその時だった。

「私が泳ぎます」フーミの腕の上で目を覚ましたセインが、水を吐き出しながら応えた。「私が浮き輪に入って、フーミさんとバリッドさんが川岸から引張るようにすれば、あるいは…」

「無茶よ、川から上がったばかりのセインさんがまた川に入るなんて」

「なら、私が浮き輪に入るわ」応えたのは、丁度ミクスをマットに寝かせたばかりのバリッドだった。「今なら私の方が体力があるから、きっとうまく行くわ」

そんな無茶な、と反論しようとしたフーミだが、いよいよ速さを増す川の流れは、早急な決断をフーミに迫っていた。

「わ、分かったわ…」セインを地面に降ろしながら、フーミは小さく頷いた。「私は急いでロープと浮き輪を持ってくるから、バリッドさんはミクスさん達の介抱を」

「ええ、急いで頼みます」地面に腰を降ろしたセインは、屋敷へと走り去るフーミに手を挙げて応えた。


屋敷に入るフーミを見送ったセインは、腰を下ろしたまま、バリッドの方へ向き直った。

「あの石、本当に『ほーむぺーじ』になってしまいましたね」

「そうね」バリッドは四つん這いになって、うず高く盛りあがった川の水を眺めていた。「でも、今まで街に現れていたものとは、全く違う感じがするのよ」

「というと?」

「あの石、何かに怯えているように見えるのよ」膝立ちになったバリッドは、曇がかった空を見上げながら応えた。「そう、淋しさというか、怖れというか…」

「淋しさ、ですか…」セインも膝立ちでバリッドの側に寄り、川の流れを見下ろした。

「だから、力で封じ込めるのではなく、優しく抱きとめることが必要だと思うのよ」バリッドはおもむろに立ち上がり、祈る様に手を握り締めた。「トホさんを助けるためにもね」

直後、バリッドのカチューシャに重なる様に、V字型の紋章が現れ、金色の光の筋を放ち始めた。光の筋は輪を描くようにバリッドの周りを舞い、球状の空間を作り上げていった。

「私はトホさんと石を助けに行きます」空中に浮き上がったバリッドは、立ち上るセインに手を差し伸べながら応えた。「ISO子ちゃんははミクスさん達の介抱を頼みます」

「バリッドも気を付けるのですよ」セインもバリッドに向けて手を伸ばし、掌を軽く合わせた。それから間もなく、バリッドは光を纏ったまま、黒い渦の中心へと飛び込んで行った。


水中に潜ったバリッドは間もなく、渦の源である『ほーむぺーじ』と、その周りでもがくトホの足を見付け出した。バリッドがトホを救い出そうとしたまさにその時、巨大な腕の様な波がトホの体を捕らえ、渦の中心へと投げ飛ばしていった。

「流れが速すぎて、近付けない!」目の前から遠ざかるトホの姿を見ながら、バリッドは次の波に身構えた。「ここまでして怒りをぶつけに来て…!」

巨大な波は束になって、バリッドに向けて殴りかかった。バリッドを守る光の球も、波がぶつかる度に軋み、その体積を縮めていった。

「何を怯えているの?」津波の連打に耐えながら、バリッドは渦の中心に向けてよびかけた。「何を怖れているの?あなたは…」


突如、バリッドの目の前に、見慣れない風景が現れた。『ほーむぺーじ』が見せているものだと、バリッドは直ちに理解した。

(これは…『フォントいじり』の…!)

蜘蛛の巣の様な網に被われた空の下、玉虫色に輝く巨人が、無数の黒い兵士を従えて大地を蹂躙し続けていた。大人達の多くが灰と化した今、立ち向かうのは槍や大砲を抱えた、年端も行かぬ少年達だった。その少年達も、巨人の圧倒的な力の前に一人、また一人と踏み潰されてゆくのだった。

(『ほーむぺーじ』が『ウェブ落とし』を…!)

バリッドが呟く間を奪うかの様に、上空を舞う『ほーむぺーじ』達は空を被う『ウェブ』を破壊し、地上へと突き落としていった。落下した『ウェブ』は街を潰すだけでは事足らず、海を逆立てて津波を引き起こし、水陸を逆転させていった。

(あれは…あなたのお母さん?)

『フォントいじり』との戦いで、只一人生き延びた少年は、砂漠と化した地上を当ても無くさ迷った末、一人の女性と出会った。

(脚が砂に埋まっている?…ちがう、脚そのものを失っているのだわ)

《私はもうすぐ旅立たなければなりません、ですから私の命をあなたに託します》

女性は最後の力を振り絞り、少年を優しく抱き締めた。直後、少年の体は金色の光に包まれ、やがて、白い石像の姿と化した。

《遠い未来、『マークアップ』の力をもって、あなたを蘇らせる者が現れるでしょう。あなたを助け出した人には、最大の礼を尽くすのですよ。そして再び現れるであろう『フォントいじり』を、今度こそ封じるのです…》

そう言い残した後、少年を『マークアップ』した女性は金色の砂粒となり、嵐の彼方へと消えていった。


現実に戻されたバリッドが見たものは、水圧に押され、水漏れを始めた光の壁だった。壁の向こうでは、錐の様に尖った『ほーむぺーじ』が、全てを押し流すべく、回転を速めていた。

「何故なの?」頬を濡らすものを拭うことなく、バリッドは『ほーむぺーじ』に呼びかけた。「あなたは『フォントいじり』を封じるために今まで眠っていたのでしょう?」

バリッドの問いかけにも関わらず、『ほーむぺーじ』は水流を強めることを止めなかった。

「でも、今あなたがやっていることは、まさに『フォントいじり』のそれではないの?」

『ほーむぺーじ』の加速が一瞬止まった。それを感じ取ったバリッドは、『ほーむぺーじ』を迎え入れるかの様に、大きく腕を広げて見せた。

「それにうすうす気付いているから、川の水を街全体に溢れかえらせるようなことはせず、この辺りに留めているのでしょう?」

バリッドを守る光の壁も次第に力を失い、背中や腕に向けて水流を浴びせるようになった。それでもバリッドは呼びかけを止めなかった。

「私には『マークアップ』の力があります」水圧と息苦しさを堪えながら、バリッドは叫び続けた。「『マークアップ』によって、あなたを罪から救い、生きる道を示すことが出来るのです…その為には…」

既に光の壁は、バリッドを水から守ることをやめていた。息苦しさが引き起こす眩暈の中、バリッドは『ほーむぺーじ』の回転が次第に弱まりつつあるのに気付いた。

「水流を止めて下さい…そうすれば、あなたを抱き寄せ、『マークアップ』を…」

光の壁は遂に消え去り、堰きとめられていた水流は一気にバリッドを取り囲んだ。薄れ行く意識の中、バリッドは目の前の『ほーむぺーじ』に向けて腕を伸ばし、母が子を守るかの様に抱き寄せた。


ロープと浮き輪、シーツを抱えて屋敷を飛び出したフーミが見たものは、トホの頭を膝に乗せ、覆面を外しているセインの姿だった。

「ま、間に合わなかった…!」

「間に合いましたよ」セインは膝立ちになって、フーミに手を振った。「急に水かさが減って、助かったみたいです…と」

トホが目を覚ましたのは、その直後だった。セインと目の合ったトホは暫く自分の顔を撫でまわした後、セインの手に握られた黄色い生地に気付いた。

「セイン!勝手に我輩のマスクを…!」勢いよく上体を起こしたトホは、セインから覆面を取り上げようとしたが、自分の声でむせ返り、慌てて口を押さえた。「ええい、まさかセインごときに膝枕をされるとは…!」

「でも良かったではありませんか、本当なら大水に飲み込まれて、川底に埋められているところだったのですよ」

「川底に埋められる?あの川にか?」静けさを取り戻した川の流れを眺めていたトホは、漸く自分の服が水浸しになっているのに気付いた。「それに、鉄砲水ごときで川が溢れかえることなどあるものか、服を濡らすことはあってもな」

「トホさんが気絶している間に、急に増水したのよ」セインの前にシーツを降ろしながら、フーミは応えた。「それよりその白衣、脱いだ方がいいんじゃない?」

「何を言うか、これぐらいの事で…」セインから覆面を奪い取りながら立ち上がったトホは、突如鼻にむずがゆさを感じ、くしゃみと共に跳び上がった。「ええい、水を吸った白衣が、こんなに重いものだとはな」

トホは面倒くさそうに覆面を被り、白衣のボタンを外しはじめた。

「そういえば…留学生はどうした?」

「バリッドなら、まだ河原にいますよ」辺りを落ち着き無く見まわすトホに、セインが応えた。「何か用があるので?」

トホは何も応えず、水車小屋に繋がる橋に向けて走り去って行った。ミクスとプレスクールの生徒達が目を覚ましたのは、それから間もなくのことだった。


バリッドはセインから借りたタオルで、元の姿に戻った石像を丁寧に拭っていた。

(何とか助けることは出来たけれど…これからどうすれば…)

バリッドは無言で石像の頬に触れ、わずかに残る温もりを確かめていた。やがてバリッドの手を被う様に、小さな影が現れた。

「そこにいたのね、バリッドは」

「ミクスさん、大丈夫?」振り向いたバリッドは、河原に降り立ったミクス達に向けて手を振った。

「セインが手当てしてくれたお陰でね…ふしゅっ!」シーツを羽織ったミクスは、中途半端なくしゃみが喉に引っかかり、思わず顎を押さえた。「く、くしゃみが不発になると、喉がかゆくなるのよね」

「もうちょっと休んでいけばいいのに」

「バリッドが見えなかったから、気になったのよ」シーツの下でデニムのジャケットを脱ぎながら、ミクスはフーミに応えた。

「そこにいるのはチップですかね」石像に最初に気付いたのは、ミクスの肩からバリッドの側を覗き込むヤンだった。「っと、隣にいましたか」

「隣にいましたか、じゃないだろ」隣にいたチップは水浸しになったヤンの帽子を取り上げ、雑巾の様に絞り上げた。「あれはどうみてもグレイ…冷たっ!」

「何を二人して呆けていますか」グレイは背後から水浸しの帽子をチップに被らせた。「大体あれはさっきの石像でしょうが」

「そ、そうか…」目に入った水をヤンの帽子で拭いながら、チップは奥にいる石像に目を向けた。「でもよく拾ったな、バリッドさんは」

「竜巻みたいに変形したのに、元の形に戻って…」ヤンが腕を組んだまさにその時だった。「な、何だ?」

石像は突如、金色の光を放ち、バリッド達を温かく包んだ。やがて光は鈴のような音と共に空へと飛びあがり、天球全体に拡散した。

光の眩しさから解放されたバリッド達は、軽く目を瞬かせた後、辺りを見回した。

「だ、大丈夫ですかバリッドさん…」手で軽く顔を拭ったヤンは、指の間からバリッドと石像のある筈の方向を覗き込んだ。「んっ?」

「まさか、バリッドさんが…?」

「違うよミクスさん、あれだよ」顔から手を離したヤンは、バリッドのいる先を指差した。

「あれって…あれ?」

ミクスは漸く、ヤンの意図を理解した。バリッドが抱えていた石像の姿は既に無く、代わりに一人の少年が全裸で横たわっていたのだった。少年が動き出したのは、それから間もなくのことだった。


少年が最初に見たものは、介抱をするバリッドの背後に映る青空だった。

「空が…青い…」少年はマットの上で小さく首を動かし、辺りを見回そうとした。

「今はあまり動かない方が良いわよ」バリッドは少年の体に優しくシーツをかけ、その上から肩を揉み始めた。「ずっと眠っていたから、先に体をもみほぐさないと」

「貴方が、『マークアップ』をして下さったのですね」

「辛く淋しい時代に怯えつづけていた子を助け出すのは、当然のことでしょう?」バリッドのマッサージは、指先から太腿へと移った。

「よ、よく分からないけれど…」少年とバリッドとのやりとりに、フーミは疑問を投げかけた。「さっきの石像が、あの男の子になった、というのでいいのよね?」

「そうとしか考えられませんね」フーミの横で、セインはスカートの上からタイツを引き上げながら応えた。「それに、先ほどの光は『ほーむぺーじ』が消えるときの光に似ていますし」

「『ほーむぺーじ』って…?」

「あるかも知れないよ、チップ」ミクスは頬を押さえながら、チップの方へ振り向いた。「『ほーむぺーじ』のせいでマネキンが人に化けたこともあったのよ、逆に人が石にされちゃう、なんてこともあるかも知れないでしょ?」

「それよりどうしましょう」爪先まで揉み解したバリッドは、少年が上体を起こすのを助けるように、肩を抱きかかえた。「この子をどうやって養っていけばいいのかしら」

バリッドの言葉をきっかけに、セイン達は少年の身寄りについて考え込みはじめた。川の流れだけが響く時間が、暫くの間続いた。


沈黙を破ったのはセインだった。

「箇条書きから産まれた、箇条書き太郎…」

突然の一言に、一同は呆然となった。それから間もなく、フーミが口と腹を抱えてうずくまった。

「な、何を言い出すのかと思ったら…!」こみあげてくる笑いを必死でこらえながら、フーミはセインの太腿を叩いた。

「おかしいですか?」

「おかしいわよ」漸く収まったフーミは、セインの手を借りてゆっくりと立ち上がった。「『石から産まれた石太郎』ならまだしも、『箇条書き太郎』は無いでしょう!」

「いえ、石の周りに書かれた文が箇条書きになっていたのを思い出したので」フーミに叩かれた太腿を軽く揉みながら、セインは少年の方へ歩み寄った。

一方、上体を起こした少年は、目の前のバリッドと歩み寄るセイン、その背後に佇むミクス達を静かに眺めていた。

「あちらの方々は?」

「私の友達よ」バリッドは少年の腰から下を被うシーツを直しながら、フーミ達を順番に指差した。「あそこにいるのがフーミさんとミクスさん、グレイ君、ヤン君、そしてチップ君、そして今近付いているのが」

「セイン・アイゾです」バリッドの隣に寄ったセインは片膝をついて一礼し、少年と目の高さを合わせた。「貴方のことはバリッドから聞きましたよ」

「そうですか…」少年はセインに一礼した後、軽く目を閉じた。それに合わせるかの様に、フーミ達も少年を囲む様に歩み寄った。

「あの、ここでずっと話しているのも何ですから」セインの後ろに腰を下ろしたフーミは、橋の側に見える屋敷を指差した。「続きは私の家でしませんか?着替えも必要でしょうし、これからの住まいのことも」


フーミは少年をバリッド達と共に屋敷へ招き入れ、仮の着替えとしてバスローブを分け与えた。少年の住まいの問題も、セインが自ら名乗り出たことであっさり解決し、あとは十分に休息をとるだけとなった。そして空が夕焼けを仄めかす頃、漸くバリッド達は帰路についたのだった。

「こういうの、ISO子ちゃんの家族はうるさいのではないかしら?」行きと同じ8足バスの中、バリッドは通路の向かいのセインに訊ねた。「ISO子ちゃんの独断で、その子を養うというのでしょう?」

「家族を失い、身寄りのない子を保護した、といえば通じるとは思いますよ」ジャケットを脱いだセインは、ブラウスのリボンを直しながら応えた。「全く嘘は言っていないでしょう?」

「そうだけど…」

「良い案があります」セインの横で川の流れを眺めていた少年は車内に向き直り、話に割り込んだ。「自分に家のことを手伝わせて下さい、掃除や洗濯など、必要とあれば何でもいたしますから」

「それには及びませんよ、執事のナイアーが」全てを行うから、と言いかけたところで、セインはカチューシャを直し、幌で出来た屋根に視線を移した。「いえ、ナイアーの助手として雇い入れたというなら、ファミリーをうまく説得できる筈です」

「臨時の使用人という訳か…」軽くため息をついた後、バリッドは通路の方へに少しだけ身を乗り出した。「川の様子はどう?箇条書き太…」

『箇条書き太郎』という名前が不意に出てしまったバリッドは急に吹き出し、両手で口を押さえた。

「全く穏やかな流れですが…何か?」

「い、いえ、『箇条書き太郎』という名前が頭から離れなくて」少年の問いかけに、バリッドは笑いで肩を震わせながら応えた。「というより本当の名前を聞き出さなかった私達の方が悪いのよね」

「いえ、訊ねられても名前を思い出せないのですから同じです」少年はバスローブの紐を締めなおした後、再び川の方へ向き直った。

「そうか…名前を忘れてしまったのね」

「でも良い名前ですね、『箇条書き太郎』とは」

「そ、それはどうだろう?」口を挟んだのは、後ろの席から身を乗り出したチップだった。「自分の名前は後悔しないように慎重に決めないと、例えば、ええっと…」

チップは席から立ったまま、額に指を突きたてて考え込み始めた。数秒後、夕日に輝く川の表面に目の行ったチップは、額から離した指を湿気た花火の様に鳴らした。

「『ヤンチ・ガワ』とか…駄目?」

「お客様、運行中に席を立つのは危険です」セイン達の反応よりも早く、チップの側のスピーカーが運転手の声を伝えた。

「やはり『箇条書き太郎』と呼んで下さい」自ら『箇条書き太郎』を名乗ることを決めた少年はセインとバリッド、そしてバリッドの隣で居眠りするミクスの方へ向き直り、軽く頷いた。「『箇条書き太郎』…こちらの方がしっくりきます」

「どの道駄目でしたね、チップの案は」渋まった顔を後ろの席に戻すチップを軽く見上げた後、セインは箇条書き太郎の手を握った「では改めて宜しく、箇条書き太郎」

「宜しくね、箇条書き太郎君」バリッドも通路から伸び上がり、箇条書き太郎の手を軽く握り締めた。「っと、また運転手さんに怒られるわね」

バリッドが席に戻る中、バスは川に分かれを告げ、イソガオカに向かう通りへと入った。夕日の後押しを受けるバスの行く先では、一番星が夜空の星達を今や遅しと待ち構えていた。


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作:Nishino Tatami (ainosato@vc-net.ne.jp)