バリッドちゃんエピソード#3: H2は破壊の暗号

( 完成: 2004年2月18日 )


運動場の扉を開けたバリッドが見たものは、輪になって座り、授業の開始を待つクラスメイト達の姿だった。

「遅いわよバリッドさん」円陣の中の一人が巨木の様に立ち上がり、バリッドを見下ろした。

「遅いといってもフーミ・サンポンさん」扉を静かに閉じながら、バリッドはフーミを見上げた。「まだ5分前ではないですか」

「いいえ、5分の遅刻です」フーミはゆったりとしたロングパンツの皺を直しながら応え返した。「集団行動では、10分前に集まっていなければならないんだから」

「そんな事一度でも言ったか?フーミ君は」横槍を入れたのはリント・ニッシーだった。「バリッドちゃんはここに来てまだ3日しか経っていないんだから、そういうことは予め言っておかないと」

「まあ今日は初めてということで仕方がないけれど」リントに少しだけ横目で睨み付けた後、フーミは続けた。「次回からは気をつけるように」

「りょ、了解です」バリッドは小さく頭を下げた後、小走りで輪に加わった。

「あとバリッドさん?」フーミは輪の側に立つバリッドの全身を暫く見まわした後、急に背を向け、その場に座りこんだ。

「はい?」

「何でもないわ」

「は、はぁ」バリッドもその場に座りながら、他の生徒達を見まわした。

(皆は殆どジャケットにパンツルックか…動きやすい服を選んだつもりなのだけれど、もっとシンプルなものにすれば良かったかしら)

バリッドは、オレンジ色のタイツと、黄色のレオタードに包まれた自分の体に目を向けた。レオタードに縫い付けられたレースのパフスリーブとミニスカートに手を触れた直後、扉の開く鈍い音が運動場内に広がった。

「セインさん!8分の遅刻よ」バリッドが扉の側を向くよりも早く、フーミの怒鳴り声がバリッドの耳に飛び込んだ。

「遅刻とは心外な」セインは担任のカンザキと共に、マットを載せたカートを押しながら運動場へ入った。「今日の授業が床運動なら、マットは必要でしょうに」

(ISO子ちゃ、いやセインさんもレオタードか…私だけではなかったみたいね)

バリッドはセインの脚を包む褐色のタイツの光沢を、暫くの間眺めていた。それを覆い隠す様に、男子生徒数人がマットの配置の手伝いに向かった。


「えーそれでは今日は」生徒達をマットの上に座らせたカンザキは、ジャケットの衿を直しながら生徒達を見まわした。「今日は留学生と共に行う最初の体育授業ということで、ストレッチ運動をやりたいと思います」

バリッドは、担任の話を聞きながら運動場の外壁を見まわしていた。

(一番広い中庭を、運動場として使っているのね。屋根が無いということは、雨の日はどうするのかしら)

「まず腰のストレッチを二人一組で行います。リント君、前へ」

「ええっ、何で?」立ち上がったリントは、バリッドの側を少し振り向いた後、カンザキのいるマットへと向かった。「折角バリッドちゃんと組になれると思ったのに」

「人数が合わなければ仕方が無いからね」マットの上に座りこんだリントの背中を、カンザキは後ろからゆっくりと押し倒した。「い、意外と硬いなリント君は」

「もっとゆっくりやって下さいよ、先生っ」

「いいけど、それより膝を曲げないようにね」カンザキはリントの曲がりかけた膝を上から押し、真直ぐに伸ばさせた。


リントの悲鳴が響く中、生徒達も組みになって運動を始めた。

「体の柔らかさには自信があったのですが」セインは太腿の裏の感覚を堪えながら、バリッドからの背中の押しこみに身を任せていた。「やはり毎日運動をしないと駄目ですね」

「何か運動はしていたの?」バリッドはセインの肩紐に手をかけながら訊ねた。

「運動というか、畑仕事をしていたのです」セインはバリッドの側を向き直ろうとしたが、肩を押されて再びマットの側を向いた。「裏庭で品種改良の為に作物を育てているのですが」

「ISO…セインさんが畑仕事なんて」セインの農作業をする様を想像しようとしたバリッドだが、レオタードに包まれた背中と、それに覆い被さる長い髪は、バリッドの想像の余地を悉く打ち砕いた。場内に上ずった怒声が鳴り響いたのは、その直後だった。

「バリッドさん!?」生徒達の視線は一斉にフーミの方に向かった。

「ごご免なさい、授業中の私語は、厳禁でしたね…」マットから立ちあがるフーミに向き直ったバリッドは、頭を抱えながら小さく腰を落とした。しかし言葉に詰まったのはフーミの方だった。

「いえ、その、あの、まあそんな所です…ええ」フーミは周りの視線から逃れる様にバリッドから背を向けた。「ミクス・ケンガーさん、今度はあなたの番よ」

ミクスがその場に座りこんだのをきっかけに、他の生徒達も持ち場へと戻った。

「バリッドさん、私達も交代しませんか?」立ちあがったセインは、バリッドの肩に触れながら呼びかけた。

「そうね、今度は私が」振り向いたバリッドは、セインの手に触れながら応えた。


マットに腰を下したバリッドは軽く腰を捻り、準備を整えた。

「バリッドは、体が柔らかいのですね」

「え、私はまだ何も…あっ」バリッドは真横に一直線に開いた脚を一旦前に伸ばし、軽く太腿の裏を揉んだ。「普通に前に伸ばした方が良いですね、この場合は」

バリッドはふと、ミクスの背中を押すフーミの後姿に視線をやった。フーミのゆったりとしたジャケットの裾は、体の動きに合わせてスカートの様に揺れていた。

(やはり大きく揺れる裾というのはちょっと…そうか、それで先にフーミさんが)

「バリッドさん、いいですか」セインの声で我に返ったバリッドは、マットに手をやり、運動の体勢に入った。


肩を押すセインに身を任せていたバリッドは、日差しに輝くマットを暫く眺めていた。そのマットが次第に光を失い、黒く染まってゆくのに気付いたとき、上体を起こしたバリッドはセインの手を取った。

「ちょっと待って、ISO子ちゃん、いえセインさん」

「どうしたのです?」

「何だか急に外が暗くなったみたいだけれど」

「予報では今日は一日晴れだと聞いたのですが…ん?」ふと見上げたセインは、中庭の屋根に切り取られた空の一部が黒く染められているのに気付いた。「何でしょう、あの黒い雲は」

「ただの雨雲じゃないですか?この時期は天気の変化が」

「いえ、あれは」おもむろに立ちあがったバリッドは、横からのヤーン・ウッズの発言を制止しながら応えた。「あれは昨日の…!」


バリッドが空を指差した直後、黒い雲のようなものは急速に広がり、運動場から日差しを奪った。

「急に夜になった」「雨雲にしては暗い」「いやな予感がするわ」生徒達のどよめきが運動場に響く中、雲のようなものは新たな動きを見せた。雲のようなものは渦巻きの様に捩れながら一つに纏まり、筒状の塊に姿を変え始めた。バリッドのフラット程の大きさまで小さく纏まったとき、それは運動場のマットに向けて急速に落下を始めた。

「皆、壁の方へ!」カンザキの叫び声と共に、生徒達は一斉にマットから走り去り、近くの壁に張り付いた。黒い塊が地響きと共にマットの一つを押し潰し、細切れにしたのはその直後だった。

黒い塊は運動場を跳ね回りながら次々とマットを踏み潰し、細切れにしていった。圧倒的な地響きの前に、生徒達は立っているのが精一杯だった。

「昨日のあれだ」「あいつが又来たんだ」「マットが細切れになるなんて」恐怖に襲われた生徒達の多くは、黒い塊の落下を恐れて、出口を探す余裕を失っていた。その時、リントの叫び声が運動場に鳴り響いた。

「おーい、出口はこっちだぞ、ISO子ちゃんも、あたっ!」半開きの扉から顔だけを出して叫ぶリントは、駆け寄ったセインに手の甲で顎を打たれた。「痛いじゃないか、折角出口を教えてやろうとしたのに」

「リントも隠れていないで、皆を助け出しなさい」セインは扉を一気に開き、リントの手を引いた。「私は右側を行きます。リントは左側を」


セイン達が生徒達を助け出している丁度その時、バリッドは扉と反対側の壁で、黒い塊の様子を観察していた。

「文字が大きくなっている?」バリッドは塊を構成する文字達に目を凝らしながら、ゆっくりと壁を離れた。「そんな事までする様になったの?あの『ほーむぺーじ』は」

地響きを堪えながら、バリッドは跳ね回る塊に少しずつ歩み寄った。

「皆は中庭から出られたかしら?『マークアップ』するなら…うぐっ!」上空から迫る塊に身構えた直後、バリッドは首筋に鋭い衝撃を受けた。バリッドの視界は音を立てて真白になり、それに合わせて手足や耳の感覚も意識から遠ざかっていった。


空白の世界から戻ったバリッドが最初に見たのは、横倒しになったセインの顔だった。ベッドの横から覗きこんでいるのだと気付くのに、バリッドは暫くの時間を要した。

「まだ痛みますか?首筋の方は」

「ここは…保健室か何か?」上体を起こそうとしたバリッドは、急に蘇った首筋の痛みに一瞬気を失いかけた。

「ご免なさいね、火急の際とあれば、当て身を使わざるを得なかったので」

「ま、まさかISO子ちゃんが…?」本名を咄嗟に出すことの出来なかった自分に吹き出しかけたバリッドは、慌てて口を押さえた。「ご、ご免なさい、セインさん…でしたね」

「呼びやすい方で呼んで下さって構いませんよ」めくれ上がったシーツを戻したセインは冷蔵庫へ向かい、氷嚢に氷を詰め始めた。

「クラスの皆は大丈夫なの?」

「皆は教室に戻って、自習をしています」ベッドの横に戻ったセインは、氷嚢をバリッドの首筋に当てながら応えた。「昼休みまでは授業は休むそうです」

「うん、大分楽になったわ、首の辺りが」ベッドの中で肩を捻りながら、バリッドはセインに目を合わせた。「ISO子ちゃん、一つ訊きたいことがあるのだけれど」

「はい、何でしょう」

「ISO子ちゃんは、私を、疑っている?」

「え、何故?」バリッドの思いがけない問いかけに、セインは思わず身を退かせた。

「私が来る前には、一度も現れなかったのでしょう?『ほーむぺーじ』は」自国の言葉である『ほーむぺーじ』を使ってしまったことに気付き、バリッドは慌てて口を押さえた。

「ほーむ…ぺーじ?」ふと視線を逸らしたセインは、窓の外の桜の蕾に目が合った。「聞いたことがあります。どこかの国の昔話で、そういう名前の怪物がいた様な」

「私の国の昔話なのだけれど」バリッドは軽く目を閉じながら、話を続けた。「その『ほーむぺーじ』が、私が来た途端に2日連続で現れた」

「それが…一体」

「ということは、私が『ほーむぺーじ』を呼び寄せているのかも知れないでしょう?」

バリッドの問いかけに、セインは直ぐには応えることが出来なかった。冷蔵庫のファンの音だけが響く時間が、暫くの間続いた。


長い沈黙を破ったのは、保健室の扉だった。

「カンザキ先生」扉に向き直ったセインは、入室した担任に向けて歩み寄った。「『ほーむぺーじ』、いえ先の黒い塊はどうなりましたか?」

「運動場に居座ったまま動かない様です、念の為運動場は立ち入り禁止にしましたが」カンザキはネクタイを締めなおしながら、バリッドのベッドに目を向けた。「それよりバリッドさんは?」

「私は大丈夫です、カンザキ先生」ゆっくりと上体を起こしたバリッドは、まだ鈍い痛みの残る首筋を軽くさすりながら応えた。「直ぐにでも教室に戻れます」

「午前中の授業は休みにしましたから、今は休むのを優先して下さい」ベッドの側に寄ったカンザキは、小さく屈んでバリッドと目の高さを合わせた。「勿論辛ければ午後の授業も休んで構いません」

「そうですか…分かりました」レースの袖を直しながら、バリッドは再びベッドに潜り込んだ。

「私は会議へ戻ります。セインさんもあとは看護の先生に任せて」壁にかけられた時計に目をやったカンザキは立ち上がり、扉の側へと歩き去っていった。

「待って、ISO子ちゃん」バリッドはシーツから出した手を挙げ、セインを呼びとめた。「少しだけ一緒にいて頂戴、一人だと不安で落ち着けなくて」


カンザキが部屋から出たのを確認したセインは、ベッドの側まで運んだ椅子に腰を下した。

「まだ、先に話したことを気にしているので?」セインはシーツ越しに、バリッドの肩に手を触れた。

「いえ、ただそういう見方も出来るのではと思って話したのだけれど」

「でも、時の偶然かも知れないのでしょう?」

「そうでしょうけれど」首筋の痛みの和らいだバリッドは、セインに背を向ける様に寝返りを打った。「この前の牛の件もありますし」

「不安なのは、皆も同じですよ」セインはレオタードの肩紐を直しながら、少しだけベッドから離れた。

「その不安の原因が、私にあるかも知れないと言っているのよ」

「それを言うなら」立ち上がったセインは部屋の隅へ向かい、白い鞄を開いた。「昨日私の中庭で咲いた菜の花が原因かも知れないでしょう?」

「ISO子ちゃんは何を…っと」再び寝返りを打ったバリッドは、レオタードを脚から外すセインに気付き、慌てて顔をシーツで隠した。「き、着替えでしたか」

「バリッドの分も持ってきましたから」呼び捨てにしてしまったことに気付いたセインは、バリッドの側に振り向きながらブラウスのボタンをはめ始めた。「少し休んだ方が良いですよ、こうやって話をしているだけでも、疲れが溜まって行くのですから」

「そうか…そうよね」バリッドが目を閉じた直後、再び扉の開く音が室内に響いた。「保健の先生かしら」

「アイネ・ブラーボ先生」セインはスカートのファスナーを締めながら、小柄な中年女性の側を向いた。

「ご免なさいねセインさん、看護を任せちゃって」アイネは縮れ毛を指で伸ばしながら、ベッドへと向かった。「セインさんはもう戻っていいわよ」

「会議が終わったのですね」ジャケットを羽織ったセインもベッドの側に戻り、バリッドの手を取った。「バリッドはゆっくり休んで下さいね、体も、そして考えることも」

「分かったわ、ISO子ちゃん」シーツから顔を出したバリッドは、小さく頷いた。


暫くの仮眠の後、教室に戻ったバリッドを待っていたのは、席を並べ替えることなく、黙々と昼食を摂り続ける生徒達だった。

(酷く静かね…昨日はあんなに楽しく食べていたのに)

「お、おかえり…バリッドちゃん」バリッドに気付いたリントは、少しだけ腰を上げて向き直ったが、彼女の顔色の悪さに気付き、慌てて腰を下した。「い、いや、ご免…」

「た、只今、リント君…」リントに気付いたバリッドは、小さく頭を下げながら自分の席に向かった。

(そうか、皆不安で押し黙ってしまって…)

席に着いたバリッドは、隣のセインやフーミに話しかける事もなく、鞄から弁当箱を取り出した。一度だけセインに話しかけようとしたバリッドだが、周りの視線が急に気になって思いとどまり、箸を鮭の親子丼に向けた。


結局バリッドは、昼休みから授業の終わりまで席から動かず、誰とも話さずに過ごしてしまった。一部の生徒達の話し声や、自分への視線から逃れる様に、バリッドは教室を飛び出した。

「ほーむぺーじ」が気になったバリッドは、運動場に面した廊下へ向かった。そこではパイロ・ウメダが、数人の教員と共に扉や窓に板を打ち付けていた。

「これで大丈夫ですかね」「応急処置だしな」「自警団を呼んだ方が」「少し様子を見ないと」床全体に平たく広がった「ほーむぺーじ」を眺めながら、パイロ達は作業を続けていた。作業の邪魔にならないように帰ろうとしたバリッドだが、踵を返した直後、駆け寄るリントと鉢合わせてしまった。

「やっぱり見に来たんだな、バリッドちゃんも」バリッドの側まで駆け寄ったリントは、パイロの作業を眺めながら訊ねた。「あの黒い奴が気になったのかい?」

「いや、別に何も」バリッドはリントに一瞬視線を合わせた直後、逃げるように廊下を駆け出した。


「バリッドちゃん、入るわよ?」その晩、キネコ・シーは粥と味噌汁を載せた盆を片手に、バリッドの部屋の扉を開けた。「挨拶もそこそこに部屋に閉じこもって、学校で何か嫌なことが?」

バリッドはシーツに包まったままベッドの上で寝返りを打ったが、キネコの問いかけには応えなかった。キネコは暫く部屋を見まわした後、盆を机の上に置き、シーツをめくり上げた。

「やっぱり、着替えもしていないのね」白いタイツに包まれたバリッドの太腿を、キネコは手の甲で軽く叩いた。「若いうちは風呂には毎日入った方がいいのよ」

「不安なのよ、何と言えば良いか分からないけれど」バリッドはシーツで顔を隠したまま、ワンピースの裾を直した。

「勉強が難しいとか、クラスメイトと喧嘩したとか?」

「そんな簡単にキネコさんに説明できることではないわ」

「そういうのってあるよね、若いうちは」キネコはバリッドの手から丁寧にシーツを外しながら応えた。「けどね、そういう時に縮こまっていると更に辛くなってしまうのよ」

「いや、休んでいるつもりなのだけれど」開けっぱなしの扉から届く光を撥ね返す様に、バリッドは顔を揉んだ。

「休むっていうのは、小さく固まることじゃないのよ」シーツを取り上げたキネコは、バリッドの手を取り、上体を起こさせた。「ちゃんと食べて、お風呂に入って、体を揉み解すことが大事なのよ」

バリッドは机の上に置かれた粥と味噌汁に目を向けた。

「これは、梅のお粥かしら?」

「体調が悪いのかと思って、消化の良いものにしたんだけど」キネコはバリッドの太腿の上に、慎重に盆を載せた。「味噌汁も豆腐と葱を入れて、お腹に優しくしたのよ」

バリッドは手にしたスプーンで、粥を一杯だけ掬い上げた。スプーンから湧き上がる湯気を暫く眺めた後、バリッドはおもむろに粥を口に運び始めた。

「どう?温かくて美味しいでしょう」

「やっと分かったわ、ISO子ちゃんが言おうとしていたことが」バリッドは味噌汁の椀を持ち上げながら頷いた。「動くことがこんなに大事だなんて」

「お代わりが欲しかったら言って頂戴」居間へと戻ったキネコは、扉の隙間から部屋を覗きこみながら応えた。「お風呂は食べ終わってから30分ぐらいしてからの方がいいわよ」


上弦の月も山の中へ沈み、日付も変わる頃、パイロは独りで校内の警備に当たっていた。

「さすがにこんなところまでは泥棒はやって来ないでしょうな」パイロは腰に掛けた棍棒を捻りながら、懐中電灯を廊下の奥へ向けた。「しかし今は泥棒よりあれの方が心配ですな」

電灯のぜんまいを巻きながら進むパイロは、運動場を囲う廊下へ辿り着いた。窓や扉を板で塞がれた廊下は、星の光をも寄せ付けず、より深い暗闇を生み出していた。

「どうなりましたかね、バリッドさんを襲ったっていう、あの黒いのは」パイロは板の隙間から、運動場の中を覗きこもうとした。「さすがに暗くて見えませんな、ランプで照らさ…うぐっ!」

電灯が運動場の床を照らした直後、廊下の奥からガラスの割れる音が飛びかかり、パイロは慌ててその方角に電灯を向けた。誰だ、と叫ぼうとしたパイロだが、今までに感じたことの無い恐怖を前にしては、だの音を十数回うめく様に鳴らすのがやっとだった。

「た、確か木の板が割れる音もした様な…」パイロは脚を震わせながら、奥へとゆっくりと進んでいった。「ややっ、こんな所に行き止まり…?」

電灯は廊下を完全に塞ぐ黒い壁を照らしていた。暫く電灯を動かしながら壁を見まわしていたパイロは、校内に行き止まりなど無いことを思い出した。

「う、動いてる…!」手から電灯を落としたパイロは、遂に事態を理解した。「ということは、さっきの音は…ひいっ!」

電灯を拾うのも忘れて、パイロは壁に背を向けて逃げ始めた。パイロの背後では、何かが潰れる音が鳴り響き、それと同時に廊下は深い闇に包まれた。

「ひいっ、追い駆けてくるっ!」反射的に振り向いたパイロは、「壁」の気配が全く遠ざかっていないのを感じた。その直後、パイロは脇腹に鈍い衝撃を受けた。廊下の壁にぶつかった、と考える余裕も無く、パイロは錐揉みをしながら床の上を転がった。

「き、来た…!」辛うじて上体を起こしたパイロは、半開きの扉から差しこむ星明りに照らされる「壁」に目をやった。巨大な指の様に蠢く黒い「壁」の前に、パイロの意識は遂に漆黒の渦へと沈んでいった。


黒い「指」がパイロを握り潰そうと飛びかかったその時だった。廊下を突き抜ける金色の光の塊が「指」を突き飛ばし、廊下の奥にへばりつかせた。直後、金色の光は一人の少女の姿になった。

「パイロ君!そうか、警備をやっていたのか…」その少女こそ、運動場に居座る「ほーむぺーじ」の「マークアップ」に現れたバリッド・バリッドだった。


パイロの脈を取りながら、バリッドは十数分ほど前の出来事を思い出していた。ベッドを抜け出し、クロゼットを開けたバリッドに気付いたチディベアは、机の上へと飛び上がった。

「いけません、いけませんぞ姫さま」バリッドが「マークアップ」の為に外へ出ると聞いたチディベアは、机の上で跳ねながらバリッドを非難した。「もし『マークアップ』をするというのなら、今すぐ本国へ強制送還するよう連絡しますぞ」

「昨日の『ほーむぺーじ』がまた現れたのよ」バリッドは、授業の時に着ていたレオタードを手にしたまま、机の方へと向かった。

「な、何故それを早く」

「『ほーむぺーじ』の力を封じるには『マークアップ』しか無いというのは、チディベアなら知っているでしょう?」

「そうですが、しかし」バリッドの意図を理解しかねたチディベアは、頭を押さえながら首を振った。

「それに、あの『ほーむぺーじ』は私が呼び寄せたのかも知れないのよ」バリッドはチディベアを抱きしめながら、シーツの上に腰掛けた。「だから…」

「だから?」

「私は『ほーむぺーじ』を『マークアップ』する。そしてJISタウンに帰り、改めて調査を行う。これなら何の問題は無いでしょう?」

「そこまで思いつめていたのですか、姫様は…」バリッドの腕の中で、チディベアは首を振った。「しかし、全てが姫さまのせいと決まった訳では」

「だから、調査が必要だと言っているのでしょう?」

バリッドの言葉に、チディベアは俯いて頭を抱えた。暫くしてチディベアは頭を上げ、バリッドと視線を合わせた。

「分かりました、姫さまの留学を打ち切らずに調査が出来るように、本国と調整をしてみます。姫さまは怪我をされないように気をつけて下さい」

「頼むわ、チディベア」バリッドはチディベアを抱き上げ、頭を軽く撫でた。

「それと姫さま」タイツに包まれたバリッドの下腹部に目が合ったチディベアは、慌てて天井を見上げた。「は、早く着替えを済ませて下さいね。か、風邪をひいてはいけませんから」

「あ、ありがとう」バリッドはチディベアの頬に軽く口付けをした後、ベッドに寝かしつけた。


フラットを出たバリッドは、金色に輝く靴で建物の屋根の上を飛び跳ねながら、学校の運動場に面した屋根まで降り立った。運動場内で「マークアップ」を済ませれば、仮に警備員が校内にいても、板で塞がれてた窓からその様子を見られることは無い、というのがバリッドの作戦だった。しかし窓の一つが既に破られ、「ほーむぺーじ」が校内に侵入したとなれば、バリッドも校内に忍び込まないわけにはいかなかった。屋根や床を擦りぬけ、廊下に現れたところで、バリッドはパイロを襲う「ほーむぺーじ」に出くわし、それを弾き飛ばしたのだった。

「気を失っているみたいだけれど…今は『マークアップ』の方が!」バリッドはパイロを教室の床に寝かせた後、廊下への奥へ飛びかかった。


バリッドは廊下の奥へ向かい、廊下にへばりついたままの「ほーむぺーじ」に手を触れた。

「まずはこれを『マークアップ』して…!」バリッドのカチューシャに重なるように、赤いV字型の紋章が現れ、それと同時に手から金色の光の粒が「ほーむぺーじ」に向けて送りこまれた。バリッドを捕らえようと「ほーむぺーじ」は蛇のように一瞬伸び上がったが、それも次第に小さくなり、やがて金色に輝く壁紙のように動かなくなった。

金色の壁紙になった「ほーむぺーじ」を筒型に丸めたバリッドは、その筒を背後に向けて投げ付けた。筒は破られた窓から飛びこんだ新たな「ほーむぺーじ」に命中し、バリッドの背後でのた打ち回った。

「やっぱり…破れた窓から!」振り向いたバリッドは、金色にうねる「ほーむぺーじ」に触れ、その動きを封じた。「まずは窓を塞がないと」

床にばらまかれた窓の残骸にまで金色の光が行き渡ったことを確かめたバリッドは、金色に固まった「ほーむぺーじ」を抱きかかえながら、窓から運動場の中へと飛びこんだ。直後、窓や板の残骸はゆっくりと浮かび上がり、壊される前の状態を作り上げていった。


窓の修復を確認したバリッドは、運動場の側に向き直った。

「星が見えない?」抱きかかえた「ほーむぺーじ」の光を頼りに場内を見まわしたバリッドは、上空が真黒に塗り潰されているのに気付いた。「ここまで大きくなって…んっ!」

運動場を屋根の様に塞いでいた「ほーむぺーじ」は、ここぞとばかりにバリッドに向けて無数の綱を撃ち出した。バリッドは金色の「ほーむぺーじ」を空に向けて投げ付け、回避に移ったが、その全てをかわしきることは不可能だった。

「しまった!脚が!」綱の一つがバリッドの脚に絡みつき、バリッドを逆さ吊りにした。それと同時に他の綱もバリッドの頭や腕を締め上げるべく、一斉にバリッドに向けて飛びかかった。

バリッドは金色に輝く手で次々と綱を弾き飛ばしたが、弾けば弾くほど綱の数は増えるばかりだった。

「力で弾くだけでは駄目か…そうだわ!」ふと思い立ったバリッドは腕を広げ、無防備な上半身を晒した。それと同時に綱達は一斉にバリッドに飛びかかり、全身に絡みつき始めた。

綱達がバリッドを締め上げ、引き千切ろうとした時、金色の光が綱を通して広がり、運動場を太陽の様に照らした。たちまち綱はバリッドを捕らえる力を失い、ビスケットの様に崩壊した。

「体を柔らかにする運動を続けていた甲斐があったわ」綱から解放されたバリッドは、空中で体勢を整え、ゆっくりと地面に降り立った。「『マークアップ』は済んだわね、それなら!」

バリッドは金色に固まって動かない「ほーむぺーじ」に向けて飛びあがり、地面に引き摺り下ろした。運動場全体に広がっていた「ほーむぺーじ」はバリッドに押し固められて次第に小さくなり、3分後にはバリッドが両手で抱きかかえられる程になった。

「あとは『ウェブサイト』を空に還せば…!」バリッドは「ウェブサイト」になった「ほーむぺーじ」を抱きかかえ、空に向けて一気に投げ飛ばした。雲一つ無い夜空の奥に「ウェブサイト」が消えた直後、鈴の音と共に金色の光が空全体を覆い、星明かりと一つになった。


「マークアップ」の終わった運動場の中心で、バリッドはレオタードの袖に指を入れながら、星空を見上げた。

「これで元通りの日々に戻れば良いのだけれど…」V字型の紋章が静かに消え行く中、バリッドは「ウェブサイト」の消えた星空を眺め続けていた。


翌朝、登校したバリッドは教室に鞄を置いた後、運動場へと向かった。そこではパイロが教員達と共に、窓を塞いでいる板を外していた。

「確かにパイロ君が電話で知らせてくれた通り、黒い塊は消えてしまっているな」釘の頭に釘抜きを差し込みながら、カンザキはパイロに訊ねた。「しかし割られた窓というのは一体何処なのかな?」

「いえ、あの時はあっしも慌てていまして」パイロは取れた釘をウェストポーチにしまいながら応えた。「割れた窓から黒い塊が飛び出して、それから逃げようとしたら壁にぶつかった、っていうところまでは覚えているんですがね」

「昼も夜も働き詰めだからそうなるんだ」板を一枚壁に立てかけたダイン・タルサンは、顎鬚を撫でながらパイロを見下ろした。「たまには仕事を休んで、9時前には寝ろよ」

「そうはいいますが、あっしも生活がかかっていますから」パイロはニッカボッカを引き上げながら、次の板へと向かった。

「ところでタルサン先生、自警団を呼ぶという話はどうなりましたか?」

「一応本部へ知らせはしたんだがね、暫く様子を見るという返事だったな」隣の板を繋ぎ止める釘を引き抜きながら、タルサンはカンザキの問いかけに応えた。「もしかしたらもう現れないかも知れないし…っと、おはようバリッド君!」

「お、おはようございます!」ダインの急な挨拶に、バリッドはうわずりながら応えた。「ちょ、ちょっと昨日の騒ぎが気になっていたので、様子を見に来たのですが…!」

「見ての通りだ、黒い奴はもういなくなったから、また今まで通り運動場を使えるぞ」

「今まで通りの運動場を見れば、塞ぎこんでいた生徒達も元気になるでしょう」壁に立てかけられた板を揃えるカンザキがダインに続いた。

「でも、また戻ってくるかも知れないのでしょう?」

「まあ、戻ってきたら戻ってきたで対策を取るさ」バリッドの肩を軽く叩きながら、ダインは応えた。「自警団にも既に知らせているからね、彼らが動けば…」

廊下に閃光が走ったのは、その直後だった。反射的に光の発した方向を向いたバリッド達が見たのは、カメラを両手に抱えるリントの姿だった。

「『ダイン先生、新入留学生に熱烈プロポーズ』ってところかな…あたっ!」駆け寄ったダインに眉間を小突かれ、リントは大げさに尻餅をついた。「全く、折角新聞の記事集めの為に頑張っていたのに」

「なぁにが『熱烈プロポーズ』だ」リントに反論しながら、ダインはリントの手を取り、立ち上がるのを手伝った。「カンザキ先生から聞いたぞ、皆落ち込んでいるときにお前だけ馬鹿みたいにはしゃいでて」

「それは良いのではないですか?ダイン先生」バリッドはワンピースの裾を伸ばしながら応えた。「皆が皆暗く落ち込んでいては、学校全体の雰囲気も悪くなりますし」

「そ、そうだよね、バリッドちゃんいい事言った」ダインの手を振り解いたリントは、後ずさりしながら頷いた。「では、僕は現像と原稿書きがあるのでこの辺で」

直後、リントは回れ右と共に廊下を走り去っていった。慌てたダインは、釘抜きを振りまわしながらリントの後を追った。

「まっ待てっ!新聞当番だからってそんな悪ふざけの記事を書くのは許さん!」

「分かりました分かりました、現像した分はダイン先生にも渡しますから」

「それを悪ふざけと言うんだ!もっと真面目にやらんか貴様はあっ!」

二人のやりとりを見つめていたバリッドはつい吹き出し、慌てて口を押さえた。肩で笑うバリッドにつられて、パイロやカンザキも作業の手を休めて笑い始めた。3人の笑い声とダインの叫び声の交わる廊下には、開放されつつある運動場の窓から暖かな日差しが降り注いでいた。


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作者について

H-man and HOLY GRAIL published by Nishino Tatami