バリッドちゃんエピソード#8: BLOCKQUOTEは誰の為に

( 初出: 2004年9月1日 / 完成: 2005年5月17日)


朝食の席に座るバリッドに、キネコは申し訳なさそうに盆を差し出した。

「ご免ね、バリッドちゃん」

「これは、非常食?」バリッドは盆の中を見て、小さく首を傾げた。

盆の中身は乾パン数枚と干し葡萄十数粒を載せた皿、そしてコップ一杯の水だけだった。バリッドは干し葡萄を3粒ほど口に放りこんだ後、水で流し込んだ。

「もしかして、何か悪いことでも?」

「そうなのよ」割烹着の袖を直しながら、キネコは応えた。「家のぜんまいを巻き忘れて、電気が流れなくなっちゃったのよ」

「そうか、それでご飯が炊けなくなって…」乾パンに手を伸ばしたバリッドは、窓の外を軽く振り向いた後、キネコへと向き直った。「ところで、ぜんまいを巻くのは、やはり水車かしら?」

「一応手巻きでも出来るけれど、結構大きいものだからね」キネコはぜんまいのある物置の方角を横目で見た後、軽くため息をついた。「だから結構な力仕事なのよ、ぜんまいを車に載せたり、水車に繋いだりするから」

「私で良ければ、手伝いますけれど?」

「結構大変よ、ぜんまいの積み下ろしとか水車へ繋ぐのとか…」乾パンを一つ食べ尽くしたバリッドを見届けたキネコは、2階のトホの部屋を軽く見上げた。「トホさんが風邪で寝こんでいなければ、手伝ってもらったんだけどねぇ」


バリッドが食事を終え、着替えを始めた頃、ヤン、チップ、グレイの3人は、チヒロー・タケックのプレスクールへ向かう裏通りを歩いていた。

「夕べ、セインさんから電話来ませんでしたか?」ヤンとチップの後ろを歩くグレイは、鞄の肩紐を直しながら訊ねた。

「ああ、来た来た」応えたのは赤い前髪を指で引き続けるチップだった。「確か、箇条書き太郎のことだっけ?」

「そうです、私達の通うプレスクールに、その箇条書き太郎君を入学させるという話があったでしょう」

「確かISOシティからの留学生ということで話を合わせる、ということでしたよね」グレイに振り向いたヤンは、スカーフを指で伸ばしながら応えた。

「決して昨日のことは口に出さない、ということもですよ」グレイは欠伸をした後、軽く肩を揺すってみせた。

「確かに川から流れた石像から生まれた、なんて話、誰も理解してもらえないよなあ」後ろからの欠伸に気付いたチップは、胸ポケットを探りながらグレイの方を振り向いた。「昨日は眠れなかったのか?」

「ええ、何かこう落ち着かなくて」頬を軽く叩いたグレイは、裏通りの突き当たりに建つ、3階建ての藤色の建物に目を向けた。「うん、さすがに先生の前では、眠そうな姿は見せられないからね」


チヒロー・タケックのプレスクールは、民家の1階をそのまま教室にした、小さな学校だった。就学前の児童達を教育するプレスクールはJISタウンの各所にもあるが、児童全員がお揃いの服を着るというのが、チヒローのプレスクールの決まり事だった。

グレイ達がその教室に着いた時には、既に他の児童達は教室中央の円卓に席を構えていた。

「5分の遅刻よ、グレイ、ヤン、それにチップ」窓際の席に座るメメリー・ミッカーは、澄ました表情で背後の壁掛け時計を指差した。

「嘘だぁ、まだ5分前だろ」抗議したのはチップだった。「いつもの時間の通りに家を出て、歩いた時間も同じなんだから」

「でも時計は8時35分を指しているわよ」

「だったら、その時計が壊れているんだ」

「そういう都合のいい事なんてあるもんですか」向かいの席に座るチップ達に向けて、メメリーは小さく舌を出した。「タケック先生が来たら、言いつけてやるんだから」


着替えを終えたバリッドはフラットの裏手に回り、物置の扉を開いた。

「この筒みたいなのが、ぜんまいかしら?」物置の隅には、酒樽ほどの大きさを持つ、黒い円筒状の物体が、太いワイヤーに繋がれていた。「ええと、外し方は…っと、ぜんまいに描かれているのね」

バリッドはスパナを使って、ぜんまいをワイヤーから外しはじめた。その背後に向けて、突如金属的な足音が飛び込んだ。キネコの運転する4脚トラックのものだった。

「バリッドちゃん、一人で外せる?」運転席から身を乗り出したキネコは、トラックの脚を折り畳ませ、荷台を地面に近付けさせた。

「ええ、ぜんまいに絵で説明が描かれていましたから」

「あとはぜんまいを横倒しにすれば、そのまま荷台まで転がして行けるんだけど…手伝おうか?」

「いえ、倒すぐらいなら私にも…あ痛っ!」ワイヤーを外し終え、ぜんまいを転がそうとしたバリッドは、手にしたままのスパナを滑り落とし、足の甲にぶつけてしまった。「よりによって、足に直撃なんて…!」

「手に何か持ったまま倒すのは、さすがに無理よ」足を押さえながらうずくまるバリッドに気付いたキネコは、トラックのぜんまいを止め、扉に手をかけた。「一緒にやりましょう?勿論スパナは横によけといてね」


「先生、遅いわねぇ」メメリーは頬杖をつきながら、机の上で指を鳴らしていた。「先生が寝坊してどうするのかしら?」

「寝坊ってことはないでしょう、きっと別の事情が」グレイがスカーフを直しながら応えた直後、階上から足音が飛び込んだ。「っと、来たな」

足音の主は家主であり、プレスクールの校長でもあるチヒローだった。皆おはよう、とチヒローが挨拶するよりも早く、メメリーが立ち上がった。

「先生、遅いですよ!」メメリーは背後の壁時計を指差しながら机を叩いた。「何分待ったと思って…」

「8時35分、合ってるでしょ?」腕時計の盤面を児童達の方に向けながら、チヒローは応えた。

「だから言ったろ」チップは得意げに、メメリーに向けて胸を張ってみせた。「時計の方がが壊れているんだよ」

「壊れてるって」チヒローはエプロンの衿を直しながら、腕時計と壁時計とを見比べた。

「ええ、メメリーの奴、僕らが5分遅刻したって濡れ衣を着せようとして」

「濡れ衣なんて」チップを横目で見ながら、メメリーは口を尖らせた。「でも一番最後に来たのには変わらないんだからね」

「ちょっと待って、ということは…」チヒローはおもむろに、手許にある電灯のスイッチを上げ下げし始めた。「ああっ、やっぱり…!」

「やっぱりって…まさかぜんまいが?」

「そのまさかよ、グレイ君」頭を押さえながら、チヒローは児童達の方へ向き直った。「どうやら朝のうちに、家のぜんまいが止まってしまったのよ…っと」

外からノックの音を聞いたチヒローは、小走りで玄関へ向かった。暫くして、チヒローは制服に身を包んだ少年と共に教室に現れた。

「は、早っ!」思わず叫んだヤンは、慌てて口を押さえ、教室を見回した。

「それでは紹介するわね」チヒローは少年の肩に手を置きながら、児童達の様子を確かめた。「今日から私達と共に勉強することになった、箇条書き太郎君よ」

「お初にお目にかかります」箇条書き太郎は床に膝をつき、三つ指を立てて一礼した。「箇条書き太郎と申します」

「箇条書き太郎君はISOシティからの留学生で、JISタウンで1年間勉強するそうよ」チヒローが箇条書き太郎を紹介する中、メメリーは隣のノノ・サミックを肘で小突いた。

「素敵な子じゃない?」立ち上がる箇条書き太郎を眺めながら、メメリーはノノに小声で話しかけた。「礼儀正しくてさ、異国の王子様みたいで」

「でもちょっと堅苦しすぎなんじゃ?」

「ノノは筋骨隆々な方が好きだからね」

「誰がそんなこと…っと」メメリーとの話に夢中になりかけたノノは、チヒローの手を打つ音で、正面に向き戻った。

「はい皆さん、こっちを向いて」エプロンの衿を直しながら、チヒローは児童達に呼びかけた。「という訳で今日は社会見学と行進の練習を兼ねて、プレスクールのぜんまいを巻きに行きましょう」

「やった勉強休みだ」「面倒だなあ」「何で僕らが」児童達の反応は様々だった。

「あの、自分も同行しても宜しいのでしょうか」サスペンダーを引き上げながら、箇条書き太郎はチヒローを見上げた。

「勿論よ」チヒローは膝立ちになり、箇条書き太郎の肩を軽く叩いた。「それに、一緒に行動したら、皆と早く仲良くなれるしね」


川へと向かって走り出したトラックの荷台の上で、バリッドはヘルメットの顎紐の締まり具合を何度も確かめていた。

「ご免ねバリッドちゃん」運転席のキネコは、バックミラー越しに見えるバリッドに向けて軽く手を振った。「いきなり荷台に載せちゃって」

「いえ、助手席よりこちらの方が面白いですし」キネコの手に気付いたバリッドは、軽く頷きながら、樽型のぜんまいの上に腰を降ろした。「荷物が落ちない様に見張っていれば良いのですよね?」

「そうよ、今は落ちる様子は無いわね?」

「ええ、縄で荷台に縛り付けているから…っとおっ!」バリッドは急にバランスを崩し、荷台の上に仰向けに倒れこんだ。「っつうっ、危なく荷台から落ちるところだった…」

「ぜんまいの上には座らない方がいいわよ」ハの字に開いたバリッドの脚をミラー越しに眺めながら、キネコはギアを落とした。「今の時間、荷物の積み下ろしをしているトラックで見通しが悪いから、急ブレーキも…わあっ!」

巨大な何かが倒れる音とともに、キネコは慌ててブレーキを踏み、トラックを止めた。悲鳴と騒ぎ声が通りに広がる中、キネコは荷台を振り返った。

「だ、大丈夫?急ブレーキかけたけど…」

「ええ、寝転がっていたところだったので」漸く起き上がったバリッドは、急ブレーキの原因を直ちに理解した。「ああっ、これは酷い…」

キネコのトラックの前では、8本足の大型トレーラーが横倒しになり、通りを塞いでいた。暫くして、上向きに開いたトラックの扉から、運転手らしい大男が這い上がり、通りへと降り立った。

「一体どうしたんです」「車を動かそうとしたら急に横からずどん、と力を受けて」「でも何で急に倒れたんだろう」運転手の男は首を押さえながら、近くの魚屋の主人に事の経緯を話していた。

「車のばねの調子が悪くなっていたのかもね」気を取り直したキネコはペダルを踏み、トレーラーを避けるようにトラックを横移動させた。「っと、さてこれで進めるように…うわっ!」

背後から飛び込む轟音に、キネコは思わず肩をすくめた。

「今度は後ろのトレーラーが…!」荷台に腰を下ろしたバリッドの指差す先では、別のトレーラーが横倒しになり、花屋のショーウィンドウを叩き割っていた。


裏庭に集まった児童達は、チヒローの指導のもと、ぜんまいを物置から取り出しはじめていた。

「ぜんまい一つ外れました」ぜんまいをワイヤーからいち早く外したのは、箇条書き太郎だった。「チヒロー・タケック先生、運ぶ手伝いをお願いします」

「さすが覚えが早いな」隣でスパナの幅を調整していたチップは、箇条書き太郎の手際の良さに思わず舌を巻いた。

「私達よりも1000年以上長生きしているだけはありますね」

「言うなよグレイ、昨日のことは誰にも内緒だって…」

「グレイ君とチップ君は出来たかしら?」取り外されたぜんまいを転がしはじめたチヒローは、チップ達に注意を促した。

「は、はいっ!今出来るところであります!」チップとグレイはチヒローに向けて大袈裟に敬礼してみせた後、ワイヤーの取り外しにかかった。


ぜんまいを載せたリヤカーを引張りながら、チヒローは児童達と共に通りに出た。

「それにしても3本全部伸びきってるとはね」周りの様子を確かめながら、チヒローは荷台のぜんまい越しに呼びかけた。「皆ちゃんと付いてきてるわね?」

「付いてくるも何も」応えたのはリヤカーを後ろから押すヤンだった。「先生が一番足が遅い筈です」

「先生も小さいのでいいから車を買えばいいのに…わわっ」チヒローの横を歩いていたチップは、スカーフをグレイに引張られ、リヤカーの後ろに連れ出された。

「チップも手伝いなさいよ、リヤカー押すのを」

「後ろは二人もいれば十分でしょ、僕は横を押すから」リヤカーの枠に手をかけたチップは、ふとヤン達の後ろに目を向けた。「そうだ、箇条書き太郎にも手伝ってもらおう、っと」

ヤン達がリヤカーを押す後ろでは、メメリーが興味深そうに箇条書き太郎に話しかけていた。

「で、今はどの辺に住んでいるの?」

「ISOシティーの財団との関係で、セイン・アイゾ様のお屋敷の一室を借りることを許されたのです」

「セイン・アイゾって!」メメリーの目は急に輝き出した。

「ご存知なので?」

「知ってるも何も、大親友ですもの!」

「セイン様の親友だったとは、意外ですね」箇条書き太郎は軽く腕を組んで頷いた。

「そうだ!箇条書き太郎君も友達いるでしょ?地元の方に…わわっ!」突然背中のスカーフを引張られ、メメリーはリヤカーの横へ連れ出された。

「お話中で悪いんだけどねぇ」メメリーを引き離したのはチップだった。「手伝ってもらえないかな、リヤカー押すのを」

「そういうのは男の子の仕事でしょ?」メメリーは不満そうに口を尖らせながら、リヤカーの枠に手をかけた。


リヤカーを先頭にした行進が、停車中の8本足トレーラーの近くに差しかかった丁度その時だった。

「先生、止まってください!危険です」突如、箇条書き太郎の叫び声が通りに広がった。

「え、何?」チヒローは声の方向に耳を傾けながらも、リヤカーを引き続けていた。「急に言われても、そう簡単には止まら…わあっ!」

チヒローの足が一瞬浮き上がり、リヤカーは急停止した。

「かっ、箇条書き太郎君!」慌てて後ろを振り向いたチヒローが見たものは、リヤカーの荷台に仁王立ちする箇条書き太郎の姿だった。「危ないじゃないの、ぜんまいが転がり落ちたら…」

「お許し下さい、何分にも急の事でしたので」

「急のことって…ええっ!」

地鳴りの様に金属が軋む音に、チヒロー達は慌てて正面を向き直った。直後、ほんの数歩手前で停まっていたトレーラーは大きく車体を傾け、そのまま横倒しになった。津波の様な地響きが近所全体に広がり、辺りの窓が一斉に開かれた。

「引越しのトレーラーだ」「いきなり倒れるなんて」「人は乗っていないみたいだけど」住民のどよめきが通りに広がり、チヒローと児童達の耳に飛び込んだ。

「や、危なかったなぁ」先の地響きで尻餅をついたチップは、立ち上がりながらトレーラーの惨状を見渡した。「あと3歩進んでいたら、僕らはトラックの下敷きになってたんだ」

「でもよく気づいたわね、あのトレーラーが倒れるっていうことに」

「いえ、実をいうと、何かがトレーラーを突き倒そうとしているのが見えたのです」荷台から降りながら、箇条書き太郎はチヒローに応えた。「自分の気のせいかも知れませんが」

「でもまあ、箇条書き太郎君のおかげで皆怪我をせずに済んだのよね」箇条書き太郎に歩み寄ったメメリーは、箇条書き太郎の肩を軽く叩きながら頷いた。「ありがとう」

「はい」箇条書き太郎はメメリーの手に自分の手を重ねて応えた。


プレスクールの行進が大通りに入った頃、キネコのトラックは水車小屋の並ぶ河原に差しかかっていた。

「昼頃には家に戻れると思ってたんだけど」トラックの足を土手の階段に向けながら、キネコは頬を軽く揉んだ。「あぁ、物凄い行列だわ」

「何です?キネコさん」荷台に座りこんでいたバリッドは、キネコの呟きを聞いて少しだけ腰を上げ、河原を見渡した。「いつもこれぐらい並んでるの?」

河原には十数戸ほどの水車小屋が並んでいたが、そのどれにも十数台ものトラックやリヤカーがぜんまいを抱えて並んでいた。

「年に1度ぐらいはあるのよね、ここまで行列が出来るのって」少しずつ視点が河原に降りて行く中、キネコは手を振りながら応えた。「いつもなら並ばなくてもすぐに巻きに行けるんだけど」

「そうですよね」膝立ちで河原の様子を眺めていたバリッドは、腹部を押さえながら、再び荷台に座り込んだ。

「バリッドちゃん、お腹空いた?」

「いえ、昼にはまだ早いですし」

「河原に降りれば、御飯を出してる屋台が結構あるからね」階段を降り終え、河原に辿り着いたキネコは、一呼吸の後、バリッドの方を振り向いた。「ぜんまいを巻き終わったら、そこで何か食べましょうよ」


ぜんまい巻きの行列の一つに加わったキネコは、しまった、とばかりに頭を掻いた。

「や、これは失敗したかも…」

「何故です?キネコさん」

「行列が短そうだったから並んでみたんだけど」車窓から身を乗り出したキネコは、ぜんまいを十数個抱えたリヤカーの一台を指差した。「リヤカーで一人だと積み下ろしが大変なのよ…んっ?」

何かが捻じ切れる音が小屋から噴き出し、キネコとバリッドはその方向に向き直った。暫くして、小屋の主らしき初老の男が行列に沿って近付いてきた。

「小屋のねじが折れてしまいました」男は首に手を当てながら、申し訳なさそうに行列の人々に頭を下げ続けた。「修理に時間がかかりますので、恐れ入りますが、他の小屋でぜんまいをお巻きになって下さい」

「2時間待ってこれかよ」「私は3時間よ」「夕暮れまでに帰れるかなぁ」行列の人々はぼやきながら他の水車小屋へリヤカーを引いていった。

「ああいったトラブルは、よくあるのかしら?」散り散りになってゆくリヤカー達を眺めながら、バリッドはキネコに訊ねた。

「本当に、たまにだけどね」荷台に座りこむバリッドに気づいたキネコは、河原に並ぶ屋台の列に目を付けた。「これは、昼御飯を食べてから並んだ方が早いかもね」


河原にトラックを停めたキネコは、バリッドと共に屋台の列へと向かった。

「バリッドちゃんは何か食べたいものある?」

「そうですね、さすがに朝があれだけでは…」饅頭や砂糖菓子の屋台を横目で見ていたバリッドは、鉄板で何かを焼く小柄な人物の姿に気付いた。「あれ、パイロ・ウメダ君ではないかしら?」

バリッドは鉄板焼きの屋台へ駆け寄り、店の主の様子を確かめた。

「へい、らっしゃい」バリッドに気付いた店主は、てこを動かす手を止めて顔を上げた。「っと、ややっ、バリッドさんではありませんか」

「パイロ君は今日も仕事なの?」

「それはもう、家計がかかってますからな」店主のパイロはバリッドに応対しながら、屋台の奥に置かれたボールを手に取った。「バリッドさんも仕事か何かですかね?」

「家のぜんまいを巻く手伝いをね、管理人さんに頼まれて」バリッドは鉄板の脇に並んだ、調理済の品物に目をやった。「ところでこれは何という料理なの?」

「これは『コナモン』といいましてな、JISタウンに古くから伝わる料理でして」パイロはボールに入った白い汁を、野菜の上に丁寧に落としこんだ。「ボールの中身は小麦粉を水に溶かしたものでして、これと野菜とを絡めて焼き上げるのですよ」

「ホットケーキの様なものかしら?」

「でも甘くないですよ、醤油やソースを付けて食べるのが…んっ?」

汁と野菜を混ぜはじめたパイロは、川上から何か騒ぐ音が飛びこんで来るのに気付いた。 バリッドが屋台の裏側に回り込んだのは、その直後だった。

「パイロ君、逃げましょう!」

「き、急に何です?」

「いいから早…あつっ!」パイロを屋台から連れ出すべく、手を掴もうとしたバリッドは、手を屋台の庇にぶつけ、慌てて指を揉みまわした。「早くしないと!」

「早くって、何が…ひいっ!」川上からの音が大きくなる中、落ち着き無く辺りを見まわしていたパイロは、急に服の衿を掴まれ、後ろに投げ飛ばされた。

「わあっ!」「ひっひいっ!」パイロを屋台から引きずり出したバリッドは、パイロを抱きかかえたまま草むらを転がり回った末、土手の階段に背中をぶつけた。

「だっ大丈夫ですかバリ…ひいいっ!」バリッドのうめき声に気付く間もなく、パイロは目の前の光景に身を捩らせた。水車小屋の数倍の巨体を誇る10本足トレーラーが、屋台の列を踏み潰しながら横転を続けていたからだった。

「ま、間に合った、みたいね…っつうっ!」目の前で荷台が通りすぎるのに気付いたバリッドは、背中の痛みに大きく身をのけぞらせた。「んっ?ヘッダンさん?」

土手を見上げたバリッドは、一人の男が階段を降りてくるのに気付いた。以前商店街で出会った自警団の団員、ヘッダン・ボッヘンだった。

「ここは危険です、早く土手から上がって下さい」ヘッダンは軽く首を押さえながら、バリッド達の側へ駆け寄った。「や、貴方はこの前…」

「自警団の方ですね?」

「ええ、トレーラーが急に倒れる事故が相次いでいるというので、パトロールに」ヘッダンは川下に向かって転がり続けるトレーラーを呆然と眺めながら応えた。「それにしても、こういうトラブルが連続して起こるというのは…」

「今までなかったと?」パイロの肩を担ぎながら立ち上がったバリッドは、トレーラーの異変にいち早く気付いた。「あっ!向きを変えた!」

「向きって…んっ!」ようやく立ち上がったパイロは、先のトレーラーが川上に戻るように横転を始めるのに気付いた。「あのトレーラー、親方のものですよ!」

「親方って、宅配所の?」

「ついこの間出来たっていう新型のです」パイロは頬を押さえながら、トレーラーの暴走を食い入るように眺めていた。「もしかしたら、親方が乗っているかも…」

「それより二人とも」肩かけ鞄の紐を直しながら、ヘッダンはバリッド達の会話に割り込んだ。「早く土手から上がって下さい、また近付いてきますよ」


バリッド達が土手から上がったときには、河原の市民は殆ど避難を済ませていた。

「バリッドちゃん、そこにいたのね!」呼び声に気付いたバリッドが見上げると、丁度キネコが駆け寄るところだった。「怪我はしなかった?」

「ええ、パイロ君と一緒に逃げてきたので」

「パイロ君って、そちらの?」

「ええっ、パイロ・ウメダといいます」パイロは肩を突っ張らせながら、キネコに向けて小さく礼をした。「バリッドさんの同級生でして」

「あの、そちらは保護者の方ですね?」バリッド達の背後で、ヘッダンは鞄を地面に降ろしながらキネコに訊ねた。

「はい、私はフラットの管理人で、留学生のこの子に部屋を…んっ?」

川上から誰かを呼ぶ声を聞いたキネコは、ふとその方角に視線を動かした。キネコが見たものは、作業服の男が両手を振り上げながら全力でパイロのもとに駆け寄るところだった。

「パイロ!そこにいたのか!」パイロの前で止まった男は、肩で息をしながらパイロと目の高さを合わせた。「怪我はしてないか?」

「ええ、バリッドさんと一緒に逃げてきまして」

「そうか…」男は作業帽を脱ぎ、辺りを落ち着き無く見回した。「親方は見なかったか?」

「や、今日は屋台の仕事だったんで、親方には…」

「トレーラーのねじ巻きが済んだんで、屋台で親方に弁当を買ってこようと思ったらこの騒ぎで…」

「それで親方さんを探していたのですね?」河原を転がり続けるトレーラーを眺めながら、バリッドは男に訊ねた。「ということはまさか、あのトレーラーの中に…!」

「うまく逃げていればと思って探しまわったんだが…」漸く腰を上げた男は、腰を逸らしながらバリッドの側を向いた。「もしかしたらまだトレーラーの中に…」

バリッド達の眼下では、トレーラーが逆立ちのまま立ち止まり、その後今まで来た道を逆方向に転がり始めていた。

「バリッドさん、やっぱりこれって、この前学校に現れた奴の仲間ですかね?」パイロの問いかけに対し、バリッドはこめかみに手を当て、無言のまま河原を見つめていた。

(パイロ君の言う通り、これは「ほーむぺーじ」の仕業よね…でもこの状況で一人でトレーラーに入るのは…)

「ねぇヘッダンさん」こめかみから手を離したバリッドは、おもむろにヘッダンの方を振り向いた。「他の大型トレーラーを使って、あのトレーラーを止められませんか?」

「うーん、あんな大きなトレーラーだからなぁ」バリッドとトレーラーをを見比べながら、ヘッダンは考え込みはじめた。「難しいけれど、運送所の方々に頼んで、数をそろえれば何とかなるかも…」

「確かに、中に人がいるかも知れないなら、トレーラーが止まるのを待ってはいられないわね」キネコも腕を組みながら、バリッドの妙案に相槌を打った。

「分かりました、皆さん近所と連絡を取って、トレーラーを沢山呼びつけて下さい」ヘッダンは鞄の口を開き、箱型の無線機を取り出した。「私も本部に支援を頼んでみます」

「あっしは宅配所へ連絡をとりに行きます」パイロは眼鏡を軽く指で拭い、作業服の男と共に街の中へ駆け出した。「バリッドさん達は他の運送所を当たって下さい」

「分かったわ、パイロ君」パイロを見送ったバリッドは、靴のベルトを締めなおしながら、キネコの方を見上げた。「私は川下へ行ってみます、キネコさんは川上の方を」

「そうね、電話を使って探してみるわ」割烹着の袖を捲くったキネコは、川上にある電柱へと走っていった。

電柱に掛かった電話機に手をかけるキネコの姿を確かめたバリッドは、川下へと走り始めた。しかしバリッドが向かったのは電話機ではなく、その先にある橋だった。


階段を降り、橋の下へと潜り込んだバリッドは、肩で息をしながら、トレーラーの様子を眺めていた。

「『マークアップ』するにしても、中の人を助けるにしても、あのトレーラーの中に入らないと…」腹部を押さえながら、バリッドはトレーラーの動きに目を凝らした。「あの朝御飯ではさすがに力が出ないけど…」

バリッドは軽く目を閉じ、両手を額に当てて周りの空気を吸いこんだ。間もなくバリッドを包み込む様に金色の光の輪が現れ、額にはV字の紋章が現れた。

「丁度良く来てくれた!」バリッドが目を開いたとき、トレーラーはまさにバリッドの目の前を通り過ぎようとするところだった。バリッドは地面を軽く蹴ると、半開きの扉からトレーラーのコンテナへ飛び込んだ。


コンテナに飛び込んだバリッドは、宙を浮いたまま庫内に目を凝らした。金属音と木の擦れる音を響かせながら回り続ける風景に、バリッドは早くも目を惑わされはじめていた。

「いるとしたらこのコンテナか、あるいは運転席に…あれかしら?」間もなくバリッドは木の軋みの源を見出した。それは庫内の奥部で転がり続ける大きな木製の樽だった。

「やっぱり…!」樽の中では一人の男が頭を押さえて丸くうずくまり、衝撃を堪え続けていた。「木の樽がクッションの代わりになっていたのか…」

男の無事を知ったバリッドは、トレーラーを止めるため「マークアップ」に取りかかった。金色の光を帯びた手をコンテナの壁に近付けたその時だった。

「つうっ!」トレーラーは急に回転を止め、バリッドは壁に勢い良く叩きつけられた。更にトレーラーは車体を大きく揺さぶる様に震え出し、バリッドは左右の壁に何度も背中をぶつける羽目になった。

「ううっ、壁に近付けない…!」光の球で辛うじて身を守りぬいたバリッドは、再び壁から離れ、体勢を取り直した。「触れ続けないと『マークアップ』が出来ないのに…」

急に動きが不規則になったトレーラーに、バリッドは「ほーむぺーじ」の殺気を感じた。

「運転席側の壁に行けば何とかなりそうだけど…」複雑に迫る壁をかわしながら、バリッドは親方の潜む樽へゆっくりと近付いていった。「その前に樽を…しまった!」

突如トレーラーは運転席側を土台にして立ち上がり、壊れた竹とんぼの軸の様にきりもみを始めた。回転が生み出す力に不意打ちを食らったバリッドは、樽から引き離された上に、壁に何度も叩きつけられることになった。

「私達を出さないつもり…?」何とかして活路を見出したいバリッドだが、その意思に反して、身を守る金色の光は急激に弱まりはじめていた。「つっ、肝心なところで、力が出ない…!」


その頃、ようやく河原まで辿り着いたプレスクールの行進は、自警団達の敷くバリケードによって、水車小屋への道を阻まれていた。

「何でさ!」最初に自警団員に突っかかったのはメメリーだった。「今日ぜんまい巻かないと、先生は家に帰れないんだよ!」

「そうはいいますが、あれを見て下さい」団員の男は、土手の方を指差しながら、メメリー達に説明を始めた。「土手ではトレーラーが暴走して、しかも中に人がいるっていうんです、その救助の為に…げげっ!」

ふと土手に視線を移した団員は、トレーラーの異変に目を丸くした。

「な、何だ!あんな逆立ち、見たことないぞ!」

「あれが暴走トレーラー?」「独楽みたいだ」「乗ってる人は」土手でのトレーラーの暴走に気付いた児童達は騒然となった。

「静かに、静かに!」チヒローは手を振りながら児童達との間に割って入り、団員の前に出た。「で、いつまでかかるのですか?夕方までにはぜんまいを巻き終えて帰りたいのですが…」

「街中からトレーラーを集めて、何とかして足止めしようと思っていたのですが、あんな動きはちょっと予定の範囲外で…」

「あの車の動き…見覚えがあります」チヒローとの話に割り込んだのは、箇条書き太郎だった。

「見覚えって、ISOシティーで?」トレーラーの暴走を呆然と眺めながら、チヒローは訊ねた。

「あの暴走を止めるには専門家の知識が必要です」応える箇条書き太郎はスカーフを締めなおしながら、軽く地面を蹴った。「ここは自分にお任せ下さい」

「お任せって、専門家を知ってるの?」児童達の方へ向き直ったチヒローは、その顔ぶれに一瞬戸惑った。「あれ?箇条書き太郎君?」


勝利を確信した「ほーむぺーじ」は、遂に最後の一手に取りかかった。

「と、飛んだ…!!」突如上からの力を受け、バリッドは床に叩きつけられた。「あ、脚に力が…ああっ!」

ふと上を向いたバリッドが見たものは壁の間を跳ね返りながら頭上を舞う樽だった。樽での圧殺を狙う「ほーむぺーじ」の悪意に、バリッドは固唾を飲んだ。

「今樽を落とされたら…!」自身を取り囲む光の弱弱しさを前にしては、バリッドはただ頭を抱えるしかなかった。「当たらないのを祈るしかない…来た!」

今までひっきりなしに跳び回り続けていたトレーラーは突如動きを止め、樽を自由落下の力に委ねた。樽は壁面を跳ね返りながら、バリッドに向けて襲いかかった。


「…樽が…来ない?」トレーラーの底でうずくまっていたバリッドは、最期の瞬間をただ待ち構えるのみだった。「それとも痛みを感じる間も無く…んっ?」

空の方へ向き直ったバリッドが見たものは、目の前に迫る樽の木目だった。何かに支えられたかの様に動かない樽に、バリッドは目を疑った。

「間に合った…様で…ありますな」樽越しに聞き覚えのある声がバリッドの耳に飛び込んだ。

「その声は…」左右を見回したバリッドは、樽と床との隙間から小さな脚を見出した。「箇条書き太郎?」

「いかにも、箇条書き太郎であります」小さな脚はその場に屈み込み、バリッドの前に全身の姿を現した。「それより急いで下さい、もうすぐ時間が動き出します」

「時間を止めた…?」漸く樽の下から這い出したバリッドは、静寂に包まれた空間をしばし見回した。「これが、箇条書き太郎君の力…」

「自分は樽を軟着陸させ、中の方の救出を行います」親方に気付いた箇条書き太郎は、樽を下から支えながらバリッドのいる側を振り向いた。「バリッド様は『マークアップ』をお願いします」

「りょ、了解…」箇条書き太郎に気圧されるかの様に、バリッドはゆっくりと上空へと舞い上がった。


空中に浮かび上がったバリッドは壁に手を触れ、わずかに残った力を両手に収束させた。

「相変わらず力は出ないけれど…」薄い金色の光がバリッドの手を包み、やがてコンテナの壁にゆっくりと広がっていった。「時間が止まっているなら…!」

光が壁の一面を被い尽くしたところで、バリッドは異変に気付いた。

「壁が動いてる…?」ゆっくりと動き出した車体に気付いたバリッドは、すぐさま足元の箇条書き太郎に目を向けた。「そうか、時間が動き始めたのか…箇条書き太郎?」

「こちらはもう大丈夫です」樽を無事に降ろした箇条書き太郎は軽く床を蹴り、バリッドの側まで飛び上がった。「今援護に向かいます」

「箇条書き太郎君も、『マークアップ』が出来るの?」

「動きを封じるぐらいなら何とか」箇条書き太郎が背後の壁に触れると、車体は梃子を噛まされたかの様に動きを封じられた。「さぁ今が絶好の機会です、速やかに『マークアップ』を」

箇条書き太郎がバリッドの側を向くと、金色の光は車内の半分まで広がっていた。

「さぁ、ここまで来れば…」バリッドは光に包まれた手で壁に触れたまま、車内を一周した。「ほーむぺーじ」の最後の抵抗か、車体は小刻みに震えつづけていたが、光が車内を被い尽くしてゆくにつれて、その動きも次第に小さくなっていった。

「おお、『マークアップ』が済んだ様ですね」金色の光が車内を埋め尽くしてゆく、箇条書き太郎は思わず感嘆の声を挙げた。「そろそろ時間が動き出します、脱出しましょう」

「そうね、でもその前に…」バリッドは車内を包む光を摘み上げ、壁紙の様に車体から切り離した。「『ウェブサイト』を空に返さないと」

車体から光の壁紙、『ウェブサイト』を引き剥がしたバリッドは、それを小さく丸め込んだ後、空へ向けて放り上げた。『ウェブサイト』は雲の一つを突き破った後、鈴の音と共に金色の星となり、空全体へと拡散していった。


市内のトレーラー数台が現場に駆け付けたときには、件のトレーラーは垂直に立ったまま動きを完全に止めていた。

「気をつけて下さいよ、また急に動き出すかも…わあっ!」河原に降り立ち、指示を始めたヘッダンは、トレーラーがゆっくりと倒れ始めるのを見て、思わずメガホンの音量を最大に上げた。「早く!橋側から支えて!」

車体が倒れるよりも早く、一台の小型トラックが荷台を支えにして割りこみ、衝撃を和らげた。トラックは這うように車体を滑らせ、トレーラーを地面に軟着陸させた。

「ああっ、荷台が凹んでる…修理代出るんでしょうね、自警団さん」

「別に手続きが必要ですがね」トラックの運転手に向けて、ヘッダンはメガホンの音量を下げながら応えた。「救護班は中に人がいないか確かめて下さい、もしいたとしたらあの動きですから、かなりの重傷の筈…」

ヘッダンの指示と共に救護班の隊員がコンテナの中へ入りこんだ。間もなく、救護班からの通信がヘッダンの無線に飛びこんだ。

「只今車内に閉じ込められていた男性1名救出しました、只今応急手当を行っています」

「怪我の状況は?」

「かなり負傷していますが、命に別状はありません」

「了解しました、応急手当が済んだら、急いで病院まで搬送して下さい」無線を切ったヘッダンは、ぜんまいを巻きながら安堵のため息をついた。「ふぅ、最悪の事態は避けられたなぁ…」


「成る程、ああやってトレーラーを止めるのか…」河原での作業を眺めていたチップは、川下から駆け寄る小さな影に気付いた。「おっ戻ってきたな、お帰り箇条書き太郎」

「箇条書き太郎、只今戻りました」児童達の輪に戻った箇条書き太郎は、片膝をついてチヒローの前で一礼した。「火急の事態ゆえ、断りなくこの場を離れたことをお許し下さい」

「いいのよ箇条書き太郎君」チヒローは箇条書き太郎の肩に軽く触れながら、トレーラーからの救出作業の様子を指差した。「トラックがうまく連携してくれたおかげで、閉じ込められていた人も助け出されたみたいよ」

「はっ、有りがたき幸せであります」箇条書き太郎はチヒローと目を合わせた後、更に深く一礼した。


再び土手に集まったキネコ達は、川下からふらふらと駆け寄るバリッドの姿に気付いた。

「た、ただいまぁ…」バリッドはおぼつかない足取りで、キネコの胸元に倒れこんだ。

「どこまで探していったの?」朝方の労をねぎらう様に、キネコはバリッドの体を抱きかかえた。「向こうの橋のすぐ側に電話があったのに」

「それに気付かなくて通りすぎてしまって…」キネコの胸に顔を埋めたまま、バリッドは応えた。「ところでトレーラーはどうなったのかしら?」

「今救出作業に入ったところみたいですな」バリッドの問いに応えたのはパイロだった。「うむ、やっぱりあれは親方の様ですな」

「怪我の状態は?」

「見た感じ意識はあるみたいですが、確かめに行く必要がありますな」

「そうか…」

「それでは、ちょっと行ってきます」川下の橋へ向かおうとしたパイロは急に振り返り、小脇に抱えていた紙包みをキネコに手渡した。「っと、忘れていました」

「これは?」

「さっきの宅配所の人がですね、バリッドさんにと」パイロが紙包みを開くと、少し冷めた『コナモン』が小麦と酢醤油の香りと共に現れた。「お腹が空いて参っているみたいだからと、お弁当を分けてくれたんですな」

「本当にいいの?」キネコの肩に掴まりながら、バリッドはパイロの側を向いた。

「一番弱っている人優先ということですな」眼鏡を直したパイロは、バリッドに向けて軽く礼をした後、川下の橋へと駆け出した。「それでは、また明日ということで」

橋の側の階段を降りて行くパイロを眺めながら、バリッドは軽く目を閉じた。

(ありがとう、パイロ君…)


夕暮れが近付く頃になって漸く後片付けが一段落し、水車小屋の稼動が再開された。キネコのぜんまいが巻き直され、トラックの荷台に戻る頃には、一番星が天頂で輝きを放ちはじめていた。

「『コナモン』のお陰で大分顔色が良くなったみたいね」街中へ戻るトラックの中、キネコはバックミラー越しにバリッドの横顔に視線を向けた。

「ええ、思った以上に食べ応えがあって」荷台のぜんまいにもたれかかりながら、バリッドは軽く欠伸をした。「お陰で少し眠くなってきたけど…」

「ここで眠ったら風邪ひくわよ?今の時期はまだ夜は冷えるんだから」

「そうよね…」バリッドは両手で軽く頬を叩き、荷台のぜんまいを縛る紐に手をかけた。「それに、ぜんまいが落ちないように見ていなければならないし」

「ところで、今日の晩御飯は何が良いかしら?」

「そうね…少なくとも乾パンと干し葡萄以外なら何でも…」言い終わるより早く、バリッドは自分の言葉が面白くなり、思わず吹き出した。

「大丈夫よ、ぜんまいが動けばコンロも使えるし、御飯も炊けるわ」必死で笑いをこらえるバリッドの姿に、キネコはバックミラー越しに頷いた。

「でも時間がかかるでしょう?」スカートの上からタイツを引き上げながら、バリッドは運転席の方を向いた。「私も何か出来ることがあるなら手伝いますけれど…」

「それなら『コナモン』はどうかしら?『コナモン』なら下準備も簡単だし、皆で焼いて楽しめるし…」

「『コナモン』か…」バリッドは軽く目を閉じ、昼に食べた『コナモン』の歯ごたえを思い出した。「いいわねそれ、野菜も沢山食べられるし」

「そう、若いうちは何でも沢山食べないとね…っと」目を閉じたバリッドに気付いたキネコは、荷台に向けて大袈裟に手を振った。「バリッドちゃん起きてる?あと10分ちょっとの辛抱だからね」

「大丈夫、起きてるわよ」軽く欠伸をした後、バリッドは運転席に向けて小さく舌を出した。「全く、昼の『コナモン』を思い出しただけなのにね」

バリッドを乗せたトラックは川岸から抜け出し、街中へと向かっていった。通りに沿って並ぶ窓からは、空の星と競うかのように、白い光を放ち始めていた。


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H-man and HOLY GRAIL published by Nishino Tatami